BUBBLE TRIP

 一泊二日と長くはない旅だ。日和からも、だいたいのものは宿に揃っているからと言われている。
 黒いボストンバッグを前に、何をどれぐらい持って行くべきなのか、ジュンは考えあぐねていた。着替え、と言っても収録の間は衣装だし、宿に着けばきっと寝間着が用意されていることだろう。
 移動のときの着替えと、部屋着は必要か? とぐだぐだと考え、結局はいろいろを兼用するような、ややゆったりとしたラインのジョガーパンツやTシャツを数枚詰め込んだ。あとは化粧品ぐらいでいいだろう。
 たしかこれを前に使ったのはテニス部の試合の時だ。その時にはパンパンに詰まっていたボストンバッグは、今は中で荷物が遊んでいるほどに余裕がある。
 あのわがままなひとの、大量の荷物を持たされるのは、どうせ自分なのだ。それなら、自分の荷物はなるべく軽くしたかった。何か足りないものがあっても、おそらく日和が持参していることだろう。貸してもらえるかどうかは別として。
「ジュンくん!」
 その様子を思い浮かべげんなりとしたタイミングで、狙ったように本物が顔を覗かせた。
「なんっすかぁ」
「荷物が入らないね! ジュンくん、なにか適当な鞄を持ってない?」
「はぁ? あんた、鞄なんて腐るほど持ってるでしょうがよ」
「ぼくの持ってる鞄は山に行くなんて用途には向いてないね! ほら、ジュンくんなら、なんかこう、気楽な感じのものを持ってるでしょう?」
 すでにパジャマに着替えもう寝るばかり、という格好の日和は、勝手知ったる様子でジュンの自室へ入り込む。
「なんかって、オレもそんなに持ってないっすよ」
 そもそも、ここに越してきたのも最近なのだ。前までの寮はこんなに広い個人のスペースはなかったから、なるべく私物を増やさないようにと心がけてきた。
 日和はさっきまで荷物を詰めていたそれを一瞥し、その鞄でいいね、とボストンバッグを指差した。
「いやいや、そしたらオレはどうするんっすか」
「それ、まだ荷物入るよね? しかたないからそれで我慢するね。ジュンくんは可能な限り物を減らすといいね」
「ハァ?」
 似たようなことを考えていたとはいえ、自分で言うのと日和に言われるのでは天と地ほどの差だ。苛立ちを押さえながら、そんなに何持ってくんすかぁ、と尋ねると、やはり服やら化粧品やら美容家電やら、本当に持参する必要があるのか疑問なものだった。この男はどうしてシャンプーやらトリートメントやらをボトルで持って行こうとしているのだろう。考えるだけ無駄なことを考える。
「いります、それ?」
「いるに決まってるね!」
 はい、と中身はともかく意外にもきちんとパッキングされた日和の荷物を受け取り、のろのろとボストンバッグに詰めた。
「まだ入る?」
「閉まらなくていいなら」
「ジュンくんは馬鹿なの? それは入ってるって言わないからね!」
 あー、殴りてぇ。口には出さずに、でも多分顔には出た。
「あんた、何回着替える気なんすか」
「だって、起きたときにどの服が着たいかわからないからね? ぼくはぼくの気分に合った服が着たいからね!」
「へいへい。服、足りなくなったら貸してくださいねぇ」
「いいけど、ぼくの服がジュンくんに似合うかね。馬子にも衣装になればいいけどね」
「まじでほんと、あんた一回死んだ方がいいっすよぉ」
「ジュンくんはおかしなことを言うね。死ぬに一回も二回もないね」
 ひとつ言えば百が返ってくるのはいつものことだ。なんとか荷物をぎゅうぎゅうに詰め、バッグのファスナーを閉める。閉まったというよりも無理やりに閉めたというのが正しいが、これでいいね、と日和は満足そうにうんうんとうなずいた。
「ジュンくん、明日は早いからね、寝坊しないように気を付けてね。五時には配車が来るからね。明日から付いてくれるのはサブマネだからね。勝手がわかってないこともたくさんあるだろうから、ぼくのことはジュンくんがちゃんとしてほしいね。ほんと、ぼくたちは高校生なんだから、泊まりがけのロケなんてやめてほしかったけどね!」
「はあ」
 口を挟む間もなく、日和は芝居がかった調子で腕を組み、難しい顔でぺらぺらとまくし立てた。そして、はあ、とため息をついた後で、
「まあでも仕方ないね、これもお仕事だからね! ジュンくんも、準備ができたらちゃんと寝てね」
と締めくくる。そして、じゃあね! と言い捨て、ジュンの部屋を後にした。
 来たときと同じように一方的な退場だ。嵐のようだった、とジュンは息をつく。
 だいぶ慣れたとはいえ、日和の相手はただただひたすらに疲れる。今日もキレなかった自分を褒めてやりたい、と思いながら、ぼすんとベッドにもたれた。スプリングがよくきいているそれは、へたりかけていた前の部屋のベッドとは大違いだ。
「ジュンくん!」
「ひっ」
 ノックもなく、がちゃりと再びドアが開いた。文字通り跳び起きたジュンに、日和はけげんそうな顔をする。
「忘れてた。ジュンくん、おやすみなさい。良い夢をね」
「あ、はあ、おやすみなさい」
 それだけを言い、今度こそ日和は自室に帰ったようだった。心臓に悪い。
 日和と一緒にいるのは、心臓に悪いことばかりだ。

   *

 その企画が持ち込まれたのは、Eveが結成されてすぐだと聞いている。さいわいとばかりに乗ったのはおそらく茨で、ジュンと日和に詳細が知らされたのは、そのしばらく後のことだった。
「良いでしょう、デビューしたてのフレッシュなアイドルがやるにはもってこいの企画です!」
「ぼく、疲れるのや汚いのは嫌なんだけどねぇ」
 眉を寄せ、日和は手にしていた資料をデスクに置く。
 そこに書かれていたのは、田舎に赴いての農業体験と、収穫した野菜を使って料理をし食レポをするという番組の企画で、改編期には必ず放送されているシリーズもののひとつだった。日和が言うのももっともで、ざっと目を通しただけでも、ジュンにさえこれは世界で一番日和には向いていない企画のように思えた。
 茨は芝居がかった様子で手を広げ、首を横に振る。
「いやいや、これ、実質Eveのプロモーションビデオのようなものですからね。受けない手はないです。疲れたり汚かったりするところはジュンに任せましょう! 日和殿下は隣でなんとなく立ってればいいですから!」
「それはそれでどうかね? ぼくのうつくしい姿を見たい子は退屈じゃない?」
「いろいろと聞き捨てならねぇんっすけど」
 にこにこと笑う茨の眼鏡の下の目はちっとも笑っていない。これは絶対に通すやつだな、とジュンは悟る。ゆるくウェーブした毛先を指でもてあそびながら、日和は、ううん、といかにも気が進まないという声を出した。
「ぼく、料理もしないしね」
「野菜を洗ったりすればいいんじゃないですか? あとは、ほら、鍋をかき混ぜたりですとか! 殿下なら絵になること間違いなしですねっ!」
「ねえ、それ、ばかにしてるね?」
「滅相もない! これは自分の心からの本心でありますが、そう思わせてしまうとはまだまだ精進が足りませんね! 伏してお詫び申し上げますっ」
「そういうの、別にいいね」
「はっ、申し訳ございません!」
 ジュンはどうですか? と茨は自分に矛先を向けた。
「オレは別に、どっちでもいいっすねぇ。このひとがいいなら喜んでやりますし。ただ、これが嫌がってるのをやらせるのはめちゃくちゃ大変なんで、そこんとこ頼みます」
「ジュンくん、これとか言わないでほしいねっ」
 ジュンの言葉に日和が目を吊り上げる。
「いやいや、自分は聡明な殿下ならおわかりいただけると思ってますけどね? Eveの単独での初ライブまでもうそれほど日もないですし、知名度は上げるに越したことはないです!」
 笑みを崩さないまま、茨は言った。
 改編期とはいえ民放ゴールデンで、まるまる一時間の番組。今までの視聴率もいい。出演しているのも好感度の高いタレントやアイドルばかり。たしかに、今のEveが受けるには文句がないどころか分不相応ですらある仕事だ。それは日和もわかっているはずで、つまるところ茨の態度が気に食わないだけなのだろう。それさえきっと、茨の思惑通りであるところも。茨とも日和とも付き合いが短いジュンでも、それぐらいはなんとなくわかる。
 結局、疲れることや汚れることはやらない、と日和は念を押し、打ち合わせは終了した。茨の言いぶりだと事務所の意向も多分にありそうであるし、もともと自分たちには拒否権などなかったのだろう。話を通す形を取ったのは、ただ日和の機嫌を取るためだけだ。
「ジュンくん、農業したことある?」
 寮への帰り道、日和は首を傾げてジュンにそう言った。
「あるわけねぇでしょ。まあ、それは局の人もわかってるでしょうし。せいぜい野菜を引っこ抜いたり、果物を収穫したりするぐらいじゃないっすか」
「ふうん。まあ、ぼくたちもここ最近、ずっとバタバタしてたからね。しばらくしたらまたライブのあれこれでスケジュールが詰まるだろうし、ここらでちょっと、旅行がてらゆっくりするのもいいかもしれないね」
「そんな呑気な企画なんすかねぇ」
「ぼくがそう言えばそうなるね。とりあえず、狭いホテルなんかじゃなくて旅館でも押さえようかねぇ」
 まるで遊びに行くような話しぶりに、ジュンは肩をすくめた。たしかに、日和と一緒に活動するようになってから言葉通り目の回るような忙しさだ。その他大勢だったころもなにかと雑用には追われていたが、今のように自分たちを中心にすべての物事が動くのはまったく訳が違う。これでもきっと、まだ日和と比べると出来の悪い自分のためにセーブされているのだろうけれど。
 部屋に辿り着き、ジュンが鍵を開けるのを、日和は当たり前のような顔をして待っていた。手ぶらなのだから鍵ぐらい開けてくれてもいいのに、と思うのは三回目ぐらいでやめた。ひとに大荷物を持たせることを何とも思っていないこの貴族然とした男には、何を言っても無駄だからだ。ジュンは粛々と日和の荷物を持ち(ちなみにほとんどの場合、外で荷物を地面や床に置くことは許されない。変なところで潔癖だ)、うろうろする日和の姿を見失わないように気を張り、先に立ってドアや鍵を開けてやらなくてはならない。
 日和に寄ってくる人間は男も女も多い。けれど、そのほとんどが日和のわがままで傍若無人な振る舞いには早々に根を上げる。そんな日和にとって、何をしても文句を言いこそするものの自分に逆らわないジュンは、身もふたもない言い方をすれば便利なのだろう。ジュンとて日和に目を掛けられ、異例ともいえる特待生への昇格を果たしてからというもの、学園の他の生徒からはどうにも浮きがちになっている。
 結果、仕事がないときまで、なにかとふたりでべったりと行動するようになっていた。それを拒む権利も、ジュンには当然ない。
「ただいま!」
 誰もいないのに、律儀に日和はそう言って靴を脱ぐ。
「ただいま」
 ジュンも今となっては癖のようにそれに続いた。そのまま玄関に荷物を放り出したいのを我慢して、共有スペースであるリビングまで持ってやる。
「ここでいいんすかぁ」
「うん。あっ、でも、そのブルーのショッパーだけはぼくの部屋に入れてほしいね」
 どうせ部屋に戻るのなら自分で持って行け、とは言うだけ無駄なので、何も考えずにジュンは日和の部屋のドアを開ける。同じように部屋に運んだ先日の荷物がまだ開封もされずに部屋の隅に積まれているのを見て、ため息が出そうになった。
「もうちょっと部屋片付けないと、今に物が溢れちゃいますよぉ。あんた、捨てられないんだから」
「なあに? ジュンくん、なんか言った?」
 聞かせるつもりではなかったひとりごとに、洗面所から日和の声が飛んでくる。地獄耳め、と舌打ちをして、なんでも、と声を張り上げた。
「ふうん。ねーえ、ジュンくん、新しいタオルどこ?」
「いつものとこにあるでしょ」
「わかんないね。出して」
「はいはい」
 念入りにうがい手洗いをしている日和の横をすり抜け、ハンガーにかかったタオルを新しいものと交換する。
 育ちにふさわしく、日和は使用人慣れしている。自分には想像もできないが、実家は何人も使用人が住み込みで暮らしていて、かいがいしく日和の世話をしていたらしい。
 だから、世話をしてくれる誰かがいるとき、日和は本当に、まったく、何もしない。今のように、ありがとう、とにこやかに礼は言うが、どうも使用人を労ってやっているという意識しかないようにジュンには思われる。ジュンが特待生になりこの部屋に引っ越してくるまでは、日和はひとりでここを使っていたはずだ。いったいどうやって生活していたのか、といつだか茨に言ってみたことがあったが、普通にひとりでなんでもやってたみたいですよ、という返事に白目を剥きそうになった。
 できないのではなく、しない。正確には、する必要を感じていない。共同生活とは何たるかを話してみたことはあるが、「どうしてジュンくんがいるのにぼくがやる必要があるの?」というところで話が永遠に平行線になるから、説得することは早々に諦めた。
 どんなに理不尽にしろ、今の自分には日和しかいないのだ。それに、つい数か月前までの鬱屈していただけの生活と比べれば、圧倒的にましだった。
「はいどうぞ。洗面所、空いたからね」
「どーも」
 日和に続いて手を洗いうがいをして、ついでに顔も洗う。濡れたままで覗いた鏡に映る自分は、少し疲れていた。
 こういうとき、自分は父親に似ているな、と思う。映像の中にいる若いころの笑顔を振りまいている彼ではなく、寮に入ってからはもうずっと会っていない、ただのひとの父親だ。
「ジュンくん!」
「うおっ」
 背後から突然声をかけられ、肩が跳ねる。本当に日和は無駄に声が大きい。
「何、どうしたの」
 心臓のあたりを押さえるジュンを見て、日和は不思議そうに瞬きをした。
「いや、なんでも……なんすか」
「そう? あのね、ぼく、お腹が空いてきちゃったね。晩ごはん、どうする?」
「ああ。なんも考えてなかったっすねぇ。今日、思ったより早く終わりましたもんね」
 日和から目を逸らし、濡れた顔にタオルを押し当てる。まったく趣味ではない、あまったるい柔軟剤の香りを吸い込んだ。
「なんか食いに出ます?」
「うーん、外食って気分じゃないね」
「出前でもいいですけど」
「ぼくとしてはあんまりだね!」
「……オレ、今日結構疲れたんすけどぉ」
「うんうん、ジュンくんの希望は聞いてないね?」
 はああ、と今度こそ隠しもせずにため息をついて、ジュンは洗面所を出た。何を作るのかとやかましい日和を手でしっしっと追い払う。日和はキッチンでは何の役にも立たないので、ちょろちょろとされるだけうっとうしい。
「買い物もしてねぇし、なんにもないっすよ」
「大丈夫だねっ、許してあげるね! ジュンくんの料理に庶民の味以上のものは期待してないからね!」
「そりゃよかった」
 一度、気まぐれに作った料理を食べさせてから、日和はこうして頻繁に料理を作れと言いつけるようになった。とは言っても、ジュンは別に料理が上手いわけではない。苦ではない、というぐらいで、腕前もごくごく普通だ。少し外に出ればいくらでも手の込んだメニューが食べられるのに、日和も物好きだと思う。
「ジュンくん」
「何っすかぁ。あんたがうろうろすると危ないから、あっちで待っててくださいって言ってるでしょ」
 適当に取り出した野菜を、これもまた適当に切っていると、いつの間にか日和が後ろに立っていた。肩越しに手元を覗き込まれる。
「まあ、これぐらいの手つきなら及第点だろうね」
「あぁ」
 昼の打ち合わせのことを言っているのは、すぐにわかった。
「一回納得したんだから、あんたもちゃんとやってくださいよぉ。わざわざ遠出してのロケなんですから」
「それぐらいわかってるね」
 日和が気が進まないそぶりを見せていたのを無視していて、土壇場で仕事をキャンセルされたのは先月だ。大きくはないけれど、かと言って小さくもない仕事だった。よく大事にならなかったものだ。
 日和は、見限ったものに対する態度が驚くほどに冷淡だ。それほど多く見たわけではないけれど、現場で日和の顔色が変わる瞬間は、これだけ一緒にいるジュンでさえ一瞬ひやりとする。そうなると、もう何をどう言おうと取り付く島もない。あんな態度を取られた相手に同情したくなる。
 しつこく念押しをしても逆効果かもしれない、とそれ以上は何も言わないことにして、黙々と手を動かす。
「一応聞いてあげるけど、ジュンくんはホテルと旅館とどっちがいい? 行ける距離にわりと有名な温泉があるらしいから、そこに泊まろうかなと思うんだよね」
「は? ほんとに別で泊まるんすか?」
「だって、せっかくだしね! 最近は、ジュンくんもジュンくんなりによくやってるからね、たまには奴隷のことも慰安してあげないといけないね」
「いや、気持ちだけで」
「温泉ならやっぱり旅館かね。お部屋にお風呂があるほうがいいね!」
「ほんとひとの話聞いてねぇな、あんた」
 打ち合わせのときの様子とは打って変わって、日和はやたらと上機嫌だ。このまま、収録まで気が変わらないことを祈るしかない。とりとめのない話を右から左に聞き流しながら、ジュンは鍋に野菜を放りこんだ。

   *

 都内から車で三時間ちょっとの移動は、眠っているとあっという間だった。結局、荷造りのために普段よりもだいぶ短くなった睡眠時間を補うようにすぐ眠ってしまったから、隣の日和が何をしていたのかはわからない。ショートスリーパーなのか、日和は睡眠時間が短くてもわりにすっきりと起きるし、疲れた様子を見せることもほとんどなかった。
 着いたのは本当に山の中だった。今更嫌がってくれるなよ、と隣の日和をこっそりと盗み見たが、意外にも日和はずっと楽しそうにしていた。協力してくれる現地の人に対してもスタッフに対しても愛想よく、ジュンは自分の心配が杞憂だったことに胸をなで下ろした。内容も打ち合わせ通りに進み、虫に怯える日和の代わりに作業はほとんどすべてジュンがやるはめになったが、たいしたことではない。ジュンはジュンでなぜか筋が良いと絶賛され、コズプロを首になったら農業もいいかもな、という現実味のないことを考えた。
 料理のパートでも、当然日和はまったく役に立たなかった。ここでもジュンくんは上手だね、すごいね、と隣で褒めちぎられたので、テレビ用とわかっていても悪い気はしなかった。自分の現金さにあきれる。
 ジュンの心配をよそに、日和は収録をそつなくこなし、普段の日和の姿を知っている自分からすれば、過剰に思えるほどのサービス精神を発揮していた。撮れ高は十分だろう。
 予定されていた時間よりも巻いて、撮影は終わった。ホスト役のキャストと挨拶を交わす。あとは明日の早朝、入り時間の都合でできなかった部分の撮影をやり、それで終了だ。せっかくの遠出をしてのロケだから、と合間にEveやEdenの内輪向けの撮影がひとつ入っていたが、そちらはたいして時間を取られるものでもない。
「ジュンくん、ほら、見て!」
 声を弾ませて、日和がスマートフォンの画面を見せてくる。
「あっ、アドレスを送ればいいんだね? 今日はここに泊まるからね。離れになっているから気を使わなくていいしね! せっかく早く終わったことだし、ゆっくりできそうでよかったね!」
「あの話、まじだったんすかぁ」
 それ以降なにも言わないから、うやむやになったのかと思っていた。思わずサブマネの顔を見るとうなずかれる。
 送られてきた旅館のサイトを見て、これは、と思ったのは建物に案内されて確信に変わった。ここは、べらぼうに高い部屋だ。ゆったりとした離れの部屋数は数えるほどしかなくて、通された室内はふたりで泊まるには馬鹿馬鹿しいほどに広い。
「この部屋の金、誰から出てるんすか……」
「さあ? 経費じゃない?」
 そんな話があるか。けれどつつけば藪蛇になりそうな気がして、ジュンは口をつぐんだ。払えと言われても払えない。修学旅行みたいだねえ、と日和はいそいそと座布団の上に座る。日和の分の異様に重い荷物を部屋の隅へやり、ジュンもおそるおそる腰を下ろした。たっぷりと綿の詰まった座布団は、今までに座ったことがないぐらいにふかふかだ。
「ジュンくん、お茶だねっ。温泉だとやっぱりお茶菓子はおまんじゅうなんだね!」
「ああ、ハイ」
 女将が淹れてくれた煎茶を、胡乱げな顔のままで口へ運んだ。当然のように、美味しい。いや、正しくは、きっと美味しいのだろうけれど、飲み慣れていないジュンには味が良くわからない。
 ジュンの不審な挙動をよそに、日和はすっかりこの部屋でくつろいでいる。さすがは貴族様だ。華道をやっているだけあり、すっと背筋を伸ばして茶碗を口元へ持っていく姿は様になっていた。
「どうしようねぇ。夕食まではまだ時間があるし。ジュンくん、どこかへ出かけたい?」
「いえ、特には……」
 気分的にはそれどころではなかった。来るときに見かけた範囲では、このあたりは温泉街といっても小ぢんまりとしたものらしく、いくつかの旅館やホテルが立ち並んでいるのと、大きくはない商店街が近くにある程度のものらしい。出かければそれなりに楽しいかもしれないが、なんせ相手が日和だ。これ以上、不必要に気を揉みたくなかった。
「そうだね、せっかくだしゆっくりするのもいいかもね。ちゃんと露天風呂がついたお部屋にしてもらったからね。ジュンくんも疲れただろうし、今日は特別に先に入ってもいいね!」
「いや、別に、後でいいです」
「どうして? 遠慮しなくていいね。ほらほら!」
「ほんっと、ひとの話聞かねぇな! あんたは!」
「なにを怒ってるの? ぼくの厚意を無下にするなんて、ジュンくんに許されているわけがないね!」
「そういう! ところっすねぇ!」
 思わず吠えてから、はっと口をつぐむ。しかし、別にこの程度の大声、きっとこの部屋では外に漏れさえしないだろう。
 そう考えると、一気に脱力した。
「はあ、まあ、じゃあお先にいただきますねぇ……」
 うんうんと満足げにうなずいているのは無視した。本当に、このアホ貴族の相手は疲れる。


 外に繋がる扉を開ける。裸足の足の裏に、床石が冷たい。
 聞いていた通り、良い温泉らしい。おそらく檜の浴槽にはなみなみと湯が張られ、水面には湯気が漂っている。さほど風呂が好きというわけでもないけれど、この湯に思い切りざぶんと浸かったらさぞかし気持ちがいいだろう。
 たっぷりと湯を溢れさせる想像は魅力的だったけれど、内湯といえどもさすがにそれははばかられた。律儀に掛け湯をして体を洗う。ぬめりのある湯からは、かすかに嗅ぎ慣れないにおいが漂っていた。
 ゆっくりと体を沈めると、自然と大きなため息が漏れた。自分で思っていた以上に疲れていたらしい。浴槽の縁に頭をもたせかけ、目を閉じる。熱い血液がめぐって、体がほぐれていくようだ。予定されていたホテルではこうはいかなかっただろうから、たまには良いことをするな、と日和のことを考えた。
 EveはAdamに比べると、わりに雑多に仕事を受けている。初めはただ日和の言うように振る舞うだけで精一杯だったけれど、今日のように比較的スケジュールに余裕のある仕事であれば、ようやくジュンにも周りを見る余裕ができていた。
 そして気づくのは、日和の頭の良さだ。自分がどう振る舞い、何を言えば相手を喜ばせることができるのか、瞬間的に判断できるのだろう。生まれ持った華のある容姿だけでも十分にひとを惹きつけるだろうに、日和の仕事を見ていると、確かにアイドルとはこういうものだな、とジュンはいつも思う。
 どうして自分が、と思うのはすぐにやめた。考えても無駄なことだ。日和が自分を拾ったのが何の気まぐれだったのか、いまだにジュンにはよくわからない。拒否権など初めからなかったし、そもそも拒否することなんて考えもしなかった。
 夜の風は昼間よりも肌寒く、しめった肌や、髪から落ちる滴がつめたい。冷えてはいけない、と、顎の下まで湯に浸かる。日和は自己管理にうるさいのだ。
「ジュンくん!」
「うわっ」
 ガラッと扉が開くのに驚いて、浴槽の底で尻が滑った。慌てて振り返った先には、日和が笑顔で仁王立ちしていた。
「えっ、ちょっと、なんすか」
 自分だけしっかりと腰にタオルを巻いているその手には、小型のハンディカムが握られている。
「オフショット用だね! あいつの命令なのが癪に障るけどね」
「いやいや、何のオフショット」
「ファンクラブ用みたいだね? なんでもいいからジュンくんのセクシーショットを撮るのがぼくの任務だね」
「風呂なんすけど! ここ!」
 あれだけしつこく勧められた魂胆がようやくわかった。はたしてそのハンディは防水なのか、まあ当然そうだよな、と詮ないことを考えているうちに、日和はずかずかと浴槽に近づいてくる。諦めて、仕事用に笑顔を作った。
 収録はどうだったとか、空き時間に何をしただとか、そういうことを尋ねられるままに答える。日和は相槌を打ちながら、ジュンが空けた場所に足を浸し、浴槽の縁に座った。
「ほら、ジュンくん、サービスショットやって」
「サービスって」
「この間のCMみたいな感じでよろしくね!」
 ああ、と納得する。先日、日和とふたりで撮影した初めてのCMは、夏に新発売する炭酸飲料のものだった。夏らしく、ということで水しぶきを散々浴びせられたことを思い出す。
 早く早くと急かす日和に、仕方なく髪を掻き上げるポーズをして見せる。そのうちに日和も自撮りを始め、ひとしきりふざけたポーズで撮影を続けた。
「ま、こんなものかね」
 最後にちゃっかりとCMの商品の宣伝をして、日和はようやくハンディカムを止めた。
「……別に風呂じゃなくてもよかったと思うんすけどねぇ」
「仕方ないね、指定されたからね。ちゃんといろいろ映らないようにしたから心配ないし、映ってても消してくれるからね、さすがに」
「そういう配慮より、あらかじめひとこと言っといてくれりゃあ良かったでしょ」
「はいはい」
 そのまま出て行くかと思えば、バスタオルの上にハンディをそっと置いて、日和は桶に湯をすくった。
 げえ、と心の中で声を上げる。
「あんたも入るんですかぁ」
「うん。わざわざ出て入り直す必要、ある?」
 必要はないが、ジュンとしては遠慮したい。シャワーを出し始めた日和の背に、じゃあオレは出ますからねぇ、と声をかけようとしたら、それを察したように先手を打たれた。
「あと、裸の付き合いも大事だって言われたね」
「……だれに」
「あの毒蛇。凪砂くんに言わせるあたりがせこいね」
 余計なことを、と舌打ちをしたくなった。浮きかけた腰を、仕方なくふたたび湯にしずめる。
「そういうの、素直に聞くんですねぇ?」
「ぼくたちのこと、もっと仲良く、距離が近い感じで売りたいらしいね? あっちがそういう感じじゃないからかもね。だからといって、実際に仲良くなる必要はないとも思うんだけどね? ジュンくんは、まだぼくに対してぎこちないところがあるらしいからね」
 シャンプーを泡立てながら、他人事のような口ぶりで日和は言った。
「はあ」
 そうだろうか、と思い返す。ぎこちないと言われても、ほぼ初対面に近い状態でユニットを組んで、それほど日も経っていないのだ。まだEdenとしての仕事は多くない分、必然的にEveとして仕事をする時間は長い。ジュンも日和もお互いに相手しかいないのだから、距離感は自然と縮まっている、と自分では思っていた。
 それにしても、態度に出ているから気をつけろ、ではなく、日和なりに親交を深めようとしているらしいことに驚く。すべてにおいて、日和には歩み寄りというものが存在しないと思っていただけに。
「まあ、ジュンくんがぼくに気後れするのはわからないでもないね。ぼくのほうが、あらゆる面で圧倒的にジュンくんよりも上だからね。これはしかたがないことだね! でもぼくたちはユニットなんだから。上下関係はきちんとしなきゃいけないにしろ、もう少し打ちとけたほうがいいのかも、って思ってね? ジュンくんがぼくの下なのはわかりきってることなんだから、それはそれとして、ならぼくのほうからも心がけるべきだね」
 感嘆に近い驚きを感じていたところに、あっさりと水を差された。いちいち腹が立つ言い方だが、日和のこれを相手にしていては話が進まない。
「別に……それこそ、まあ、あんたのほうがオレよりも上なのはオレもわかってるんで。それを気にしてるとかじゃないですけどねぇ」
「じゃあ、なんで?」
「なんで、と言われても」
 自覚がないことを問われても困る。
 体を洗い終えた日和が、手でスペースを空けろと合図する。なるべく横にずれたつもりだったけれど、そこそこの体格の男ふたりがゆったりと入れるほどには、この湯船は広くない。
「……ちょっと狭いね」
「いや、オレはめちゃくちゃ狭いっすよぉ。我慢してください」
 なぜわざわざ温泉に来てまで、体育座りをして日和のために場所を空けているのか。考えるとむなしくなりそうなのですぐにやめた。
「ほら、ジュンくん、そっちずれて。脚伸ばして。そのほうがましだね」
「えぇ……」
 男同士だというのに、こんな、肌が触れ合いそうな距離感で風呂に入るのは違和感がありすぎる。これで本当に距離が縮まるのか、逆効果じゃないのか、と思わなくもなかったが、言って聞くような日和ではない。
 はあ、とさきほどのジュンと同じようなため息をついて、日和はぐっと手足を伸ばした。
「気持ちいいね! やっぱり温泉にして正解だね。風呂は心の洗濯っていうしね」
「ちょいちょいじじくさいこと言いますよね、あんた」
「うるさいね、ジュンくん」
 日和の濡れた髪は普段よりもだいぶ色が濃い。暗いせいかもしれない。後ろに撫でつけている前髪から、ひと房だけが額に下りている。
 薄暗い中でも、日和の目はあかるく光っていた。ジュンはその様子をしばらく見つめてから、それが水面に映った光をさらに反射しているのだと気がついた。
 うつくしい男だ。きっと、自分とは対照的に。
 こまやかな線でどこまでも丁寧に描かれたような繊細さ。それは精巧すぎて、いっそ人間味がなくなりそうな造形なのに、日和の豊かな表情がそこに数多の色をつけている。
 そういう美を持つ日和と並び立って、自分のほうが劣る容姿だとは思わない。ただ、ジュンにはないものだ。そして、ジュンが持つものを、日和は持たない。
 ふたりでユニットを組むのだと言われたときから、ジュンはそれを理解していた。自分はこの人と一緒にいることで、よりこの人を輝かせなければいけない。そして、それは日和も同じだと。そうでないのなら、ふたりの意味がない。ふたりでやる意味がないのなら、自分はいつ捨てられてもしかたなかった。
「なにを考えてるの?」
 促すように、日和がジュンを見る。
「……単純に、時間が足りないんだと思いますけど」
「時間?」
「時間」
「何の?」
「慣れるための。あんた、ちょっとこう……まぶしいじゃないっすか。いろんな意味で。それに、オレがまだ慣れてないだけじゃないですかねぇ」
 ジュンの言葉に、日和は目をみはった。まぶしい、と繰り返す。そして、ぷっ、と吹き出した。
「あはっ、なに、あはは! そっか、ジュンくんはぼくのことがまぶしかったんだねぇ! ならしかたがないのかもね!」
「……なにが面白いんっすかぁ」
 ツボに入ったのか、日和はげらげらと笑い転げる。それに合わせて、湯の表面は小さく波をたてた。
 そんなに笑われると、だんだんと恥ずかしくなってくる。余計なことを言わなければよかった。ぶすっとするジュンなど気にする様子もなく、日和は顔を赤くして、目尻を人差し指でぬぐった。涙が出るほど笑われることだろうか。
「そっかそっか。ぼく、髪の毛の色でもちょっと暗くしようかねぇ。ジュンくんが早く慣れるように」
 濡れてまとまった金髪のふさをつまみ、日和が首を傾げる。
「いや、似合わないっすよぉ」
 間髪を入れずにそう返すと、また声を上げて笑われた。
「もういいでしょ。オレ、出ますからね」
「うんうん、恥ずかしがらなくてもいいからね?」
「恥ずかしがってません」
「ぼくはもう少し入ってるね。ぼくのトリートメントとドライヤーはジュンくんの荷物の中に入ってるから、ちゃんと出しておいてね」
「はいはい」
 風呂から上がれば、どうせ、髪を乾かせと言いつけられるのだろう。
 わがままだと思う。こちらの都合など考えもしないし、ジュンが従わないと途端に機嫌を損ねる。慣れたとはいえあまりの横暴さに、未だに腹が立つこともある。
 それでもやはり、なぜか憎みきれない。自分でもよくわかっていなかったその理由に意図せず辿り着いたようで、どうにも居心地が悪かった。
 背中から日和の鼻歌が聴こえる。ジュンはそれを聴きながら、本当に余計なことを言うんじゃなかった、と後悔した。

2018/5/3

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