3:50 AM

 誰かいる。想像もしていなかったことに一瞬強張った体は、それが日和だとわかって一気に脱力した。
「……なぁにやってんすか」
 リビングの扉を後ろ手に閉めながら、布の塊に話しかける。返事は、ない。
 暗い部屋の中、大きなテレビの光が、ブランケットを被りソファーに座る日和の姿をぼんやりと浮かび上がらせている。流れているのは、ジュンが見たことがないステージ映像だ。音がしないから、イヤホンを使っているのかもしれない。聞こえていないのか、と思い当る。
「真っ暗じゃねぇか。電気、つけますよぉ」
 一応断りを入れ、スイッチを入れる。ぱ、と白熱灯が灯り、日和は弾かれたようにジュンの方を見た。やっぱり聞こえていなかったようだ。
「なに」
「ジュンくん、消して!」
 なにをしているのか、と最後まで言う前に、とがった声が飛んできた。はぁ? と訊き返す間もなく、日和は顔を背ける。
「消してってば」
「……はぁ」
 なんなんだ、と思いながら、言われるままにスイッチを押す。ふたたび、リビングはうすぼんやりとした闇に包まれた。
「なにしてるんですかぁ」
 ちらりと時計を見る。針が差しているのは、もう深夜と言うよりも明け方に近い時間だ。あと数時間もすれば、窓の外は明るくなりはじめるだろう。
 日和はジュンの問いには答えず、じっとテレビを見つめている。ソファーに片脚をあげ、そこに顎をのせた姿は、いちいち行儀に厳しい日和にしてはめずらしい。
「寝てたんじゃないんですか」
「寝てたね」
 今度は聞こえたようだ。確かにパジャマ姿であるし、日付が変わる前におやすみと言い合って自室に入ったから、ジュンと同じように目が覚めてしまったのかもしれない。
 いつも訊いてもいないことをべらべらと喋りまくる日和が黙っていると、どうも調子が狂う。話をする気がなさそうだったから、その後ろをすり抜けてキッチンへ入った。
「なんか、飲みますか」
 一応、そう声をかける。
「うん……」
 返事はうわの空だ。いつもなら問い返すところだけれど、なぜかそれははばかられた。
 冷蔵庫を開け、牛乳のパックを取り出す。自分と日和のマグにそれぞれ八分目ほどを注ぎ、レンジに入れた。ぬるめを好む日和のために、表示の時間よりも三十秒ほど早く取り出す。それから、日和のぶんにだけ、ひと匙のはちみつを垂らした。
「ここ、置いときますよ」
 ソファーの前のローテーブルにマグカップを置く。そこまでして、ようやく日和はジュンを見た。
「……ありがとうね」
「いいえ」
 きゅっと持ち上がっていた眦がわずかに和らぐ。手を温めるような仕草で、日和はマグカップを取り上げて両手で包んだ。
「ちょっと寒かったから、ちょうどいいね」
「そりゃよかった」
 部屋に帰るかどうか迷っていると、日和が当たり前のようにジュンの場所を空けた。イヤホンを外し、ぽいとテーブルの上に放り出す。
「いいんすか」
「いいね、べつに。なんとなく見てただけだしね」
「はぁ」
 ときどき、日和はジュンでもすぐに嘘だとわかるような嘘をつく。なんとなくという顔ではないだろうに。
「ほら、ジュンくん。ぼくはやさしいから、半分貸してあげようね」
 ソファーに座ったジュンの肩に、日和がブランケットを被せてくる。オレは別に寒くないんすけど、と言いかけてやめた。最近の日和のお気に入りのブランケットは大判で、薄手でふわふわと軽いのにあたたかい。されるままに体を寄せると、肩と肩が触れた。
 日和は身内には距離感が近く、スキンシップも多いほうだ。初めはどうもそれに慣れなかったけれど、今ではジュンもだいぶ平気になった。仕事で歌うときなど、ほとんど密着していると言ってもいいパフォーマンスをしていればさすがに慣れる。
「ジュンくん、体温高いよね」
「そっすかねぇ」
「鍛えすぎじゃない? 筋肉のせいだよね!」
「はぁ」
 多少、いつもの調子が戻ってきたような気がする。これはこれでうっとうしいけれど、さっきみたいに感情が抜け落ちたような無表情よりはよほどましだった。
「なに見てたんですか」
「うん? これ、ジュンくんは知らないんだっけ」
「見たことねぇですね」
 画面には、日和が歌っている姿が映し出されている。それほど前ではないことはわかるが、ジュンには見覚えのない衣装だった。
 テレビの中の日和はちょうど歌い終わったようで、ポーズの後、笑って客席に手を振っている。
「これは、ジュンくんと会う前だね。ぼくと凪砂くんとで、何回かライブをしたことがあってね。そのときの映像だね。資料用だから、画質は良くないけどね」
「へえ」
 なんだってまた、こんな時間にこんなものをひとりで見ているのか。それは訊かなくても、なんとなく察せられた。
 昨日の仕事は、確かにあまり後味が良いものではなかった。
 合同ライブというのは名ばかりの、蹴落とし合いのようなライブだった。日和は初めからつまらなさそうにしていたけれど、事務所の意向であれば仕方がない、と割り切っていたようだった。もうそれほど時間はない。単独ライブまでに、なるべくジュンに場数を踏ませたいのと、Eveとしての活動にも勢いをつけたいのだろう。
 外面だけはいいが実際はわがまま放題、学内でも評判がよくない巴日和と、ぽっと出のどこの馬の骨ともわからないような、二世アイドルの漣ジュン。そういう印象を正さなかったのはわざとだ。相手がどう思っていたかは知らないが、合同相手とEveの実力差は一目瞭然だった。当然、こちらが上という意味で。
 途中から自分たちと張り合おうという気すら失ったらしい相手のステージは、ジュンの目にも見苦しく映った。
 どんなにつまらない仕事であっても、一度客の前に出れば、日和はパフォーマンスには手を抜かない。もちろん、ジュンもそうだ。ただでさえ実力差があるのに、そんな余裕があるわけがない。
「ジュンくん、帰ろうね」
 舞台を降りた日和は、相手方を一瞥しそれだけを言って、打ち上げどころか挨拶もせずに会場を後にした。またEveの評判が悪くなるな、とちらりと思ったものの、ジュンもおおむね日和と同じ思いだったので素直に従った。
 日和の様子が普段と違ったのはそれだけで、帰りも帰宅後もいつものように喋り、笑っていたので、気がつかなかった。
 テレビの中では、今度は凪砂が歌っている。AdamやEdenのときよりも若干雰囲気がやわらかく感じられるのは、日和とふたりのステージだからだろうか。音がないのが残念だけれど、やっぱりかっけぇな、と思いながら見つめた。
「ナギ先輩、ずっと髪長いんですね」
「まあね、でもそんなに前じゃないね。半年ぐらいかね?」
「ちょっと雰囲気違う」
「本来、凪砂くんはこういう感じだね。なんか今、あいつの謎の演出であんな感じだけどね」
「へえ」
 ぽつぽつと、とりとめのない会話がうす暗い室内に浮く。
「なに、気にしてんすか」
「なに?」
「昼間の」
「ああ」
 距離が近すぎるから、逆に顔を見るのには不便だ。日和は今、どういう顔をしているのだろう。
 その肩がわずかに身じろいだ。
「気にしてるわけじゃないけどね」
「ふうん」
「なに、それ」
「べつに」
「ジュンくんのくせに、生意気だね!」
「そりゃ、すんませんねぇ」
 人から嫌われることは耐えられない。日和が口癖のように言うことだ。それも理由のひとつかもしれないが、他にも何かあるのだろう。
 言いたければ言うだろうし、言いたくなければジュンがどれだけ訊いても日和は黙っている。だから、それ以上は何も尋ねなかった。
「……ちょっと、信じられなかっただけだね」
 日和はマグカップをテーブルに置き、ジュンの方へさらに体重をかけた。
「重いっすよ」
「平気でしょ、これぐらい。でもほんと、ジュンくんは最近鍛え過ぎだね? 硬い」
「あんたは、もうちょっと筋肉つけてもいいんじゃないっすかぁ」
 仕返しのように腹をつつくと、ギャアと日和は声を上げた。
「セクハラだね!」
「耳元で叫ばないでくださいよぉ。うるさい」
「誰のせいなのっ」
 踊るには必要十分だね、と、おそらく口をとがらせて言い、日和は黙った。
 しばらくそのまま、ふたりで音のないライブ映像を眺めた。ちょうど今はダンスナンバーらしい。日和と凪砂はダンスのスタイルこそ少し違っているが、同じ振りを踊るとそれが逆に個性を際立たせている。
 凪砂は文句がなく精密で、ダイナミックなのに、それでいて優雅なのはどうしてだろう。対する日和はひとつひとつの動作が丁寧で、いくら激しく踊っていてもどこか重力を感じさせないようなかろやかさがある。日和から、指先まで、とよく注意されることを思い出した。指先まで神経を通して。意識して。それをきちんと体現できたなら、こんなふうに踊れるのだろうか。
 舞台の上の日和は、全身から何かを発しているように見える。言葉にするなら、熱とか、光とか、そういうもの。それを平等に、全員へ注いでいる。観客はそれを受け取り、同じものを日和へ返す。それがステージなのだと、いつも日和は言う。
「べつに、ぼくたちに対してはいいんだけど。お客さんがいるのに、あれはないよね」
 昼間の、まるですべてを放棄したかのようなステージ。
「怒ってんのかと思ってました」
「怒ってる。軽蔑してるね。あんなの、下流もいいところだね。あんなのと同じステージに立つなんて、もう金輪際耐えられないね」
 日和の声が硬く尖る。
「きっと、彼らを見に来てたひとだっていたはずだね。それを忘れるなんて。もうぼく、情けなくってね。こんなのが、同じ学園で同じアイドルとしてステージに立ってるなんてね」
 きつい言葉に反し、最後の方の日和の声は弱々しかった。
 日和は潔癖だ。理想が高く、いっそ純粋ともいえる強さでそれを信じているからこそ、今日の様子は堪えたのだろう。
 ジュンは違う。初めから特待生扱いで転入している日和はわかっていないけれど、玲明で陽の当たる場所はごく一部だ。そのごく一部を取り合い、数えきれないほどの生徒が足の引っ張り合いをしている。
 誰かを蹴落とさなければ、自分が座りたい席は空かない。
 それでも上に上がろうという意識がある生徒はまだましで、まったく救いようのない人間も山ほど見た。好き好んで飼い殺しにされているようにしか見えない生徒のことが、ジュンには理解できない。
 トップになるんですよ、と言われたことを、ふと思い出す。


 この子にしたからね、という日和の言葉とともに、凪砂と茨に引きあわされた日のことだ。
 茨はジュンのことを頭の先からつま先までじろじろと眺めまわした後、まあいいでしょう、と言った。なんだそれ、と思ったのを強く覚えている。
「日和殿下が選んだ相手ですからね。自分が文句を言う筋合いはありません」
「当然だね。ぼくの前で、あんまり出過ぎたことを言わない方がいいね」
 ソファーの日和が、退屈そうに脚を組み替えた。
「これは申し訳ありません! ただ、自分は事務所からEdenを任されている身ですのでね! 殿下とユニットということになれば、自動的に我らの同士ということですからね。自然と見る目も厳しくなるものです! ああ、お気を悪くしたらすみませんねぇ、ジュン? でいいですか?」
「……茨」
 凪砂に言外に咎められ、茨は大げさに恐縮する。
「ああ、いやいやこれは閣下まで! 勿論わかっておりますよ! ご心配はありませんっ」
 話が良く見えない中、茨はべったりとした笑みを張り付けたまま、ジュンに言った。
「まず、玲明学園でトップといえばEve、という存在になってもらわないと困りますね! 名実ともに!」
「……言われなくても、そうなるつもりですけどねぇ」
 不快感を隠さずに言い返すと、茨は一瞬目を丸くして、それから大声で笑い飛ばした。
「あっはっは! これは失礼! よくわかっていらっしゃるようだ! 自分などが口を出すことではありませんでしたね!」
 ひとしきり笑った後で、茨はまるで悪だくみを吹き込むように声を潜め、言ったのだった。
「トップになるんですよ。いえ、なりましょう」
 あの時の茨は、玲明学園でトップになるという意味をよくわかっていたのだと思う。日和はともかく、ジュンもそれを理解していることも。
 日和は醒めて擦れているかと思えば、時々ジュンが驚くほどに純粋な部分がある。だから、散々救いようのない輩を目にしてきてもなお、今も心を痛めているのだろう。
 ロマンチストが嫌いな日和自身は否定するだろうけれど。
「昼間、ライブで」
 日和は長いこと黙っている。寝ているのかと思いながら、そっと話しかけた。
「うん?」
 肩にかかる体重が少し軽くなって、日和がこちらを見たのがわかる。やわらかい髪が耳の下を掠め、くすぐったくて首をすくめた。
「初めの、Eveのところ。新曲やったじゃないですか。あれ、うまくいって良かったです」
「ああ」
「オレ、ちょっと心配だったんすけど」
「ジュンくん、けっこう苦戦してたしね」
「はい」
「また明日、映像チェックしないとね。ぼく、いくつかジュンくんに言わないといけないことがあるね」
「なんすかそれ、怖ぇし。明日っつうか、今日ですけどねぇ」
「午後のダンスレッスンのときにちゃんと教えてあげるからね!」
「だから、怖ぇんすけど」
 日和がいつもより低い声で笑う。
「そうだね。それなら、そろそろ寝ないとね」
「そうっすねぇ。あ、でも」
 ジュンはテレビを指す。
「これ、見てみたいです。まだだいぶあるんですか?」
「いや、次で最後の曲だと思うね?」
 日和がすっと立ち上がり、テレビからイヤホンを抜いた。ミディアムテンポの曲が流れだす。画面の中に映るのは、汗だくの日和と凪砂だ。
「たぶん、ジュンくんは見たことない曲だね」
「そうですね」
 当たり前のように、日和はふたたびジュンの隣に潜り込んだ。それを、さっきとは逆に、ブランケットを広げて迎える。
「前のユニットの曲ですか」
 日和が、以前凪砂とユニットを組んでいたことは知っていた。なにか思うところがあるらしく、その頃のことを訊かれた日和の口が重くなることも知っている。
「ううん。これは、ずっと昔の曲のカバーだね。あの頃の曲は、もうぼくたちが歌うには、少しそぐわないからね」
 だから、普通に返事があったことに少し驚いた。
 曲に合わせ、日和が小さくメロディーを口ずさむ。言われてみれば、ジュンも聴き覚えがあるような気がする懐かしいメロディーだ。
 テレビから流れる、マイクを通した高くのびやかな声とは違う、空気をふくんだようなまるい歌声が部屋に満ちる。忘れていたはずの眠気がよみがえってきた。
「眠い?」
「いや、大丈夫です」
「うそ。手があったかいね。ジュンくんはわかりやすいね」
 日和が、近い方の手をぎゅっと握る。たしかに、その手の温度は自分よりもひんやりしていた。
「もう、寝ようね。これは置いとくから、いつでもジュンくんがいいときに見たらいいね」
 きっと、自分ひとりで、これを見ることはないだろう。そう思ったけれど、理由は説明できないから、ジュンは曖昧にうなずいた。
「ジュンくん、ここで寝ないで」
「寝てないですって」
 すぐ近くにあった体温はあっけないほどするりとほどけて、手の中から抜け出ていく。それがさみしいような気がしたのは、きっと眠いからだ。
「ほら」
 ぼうっとしていると、仕方がないという顔で、日和が手を差し出した。考えるよりも先にその手を取る。日和は笑って、ぐっとジュンを引き起こした。
「あの」
「なあに?」
「……いや、なんでもねぇっす」
 余計なことを言いそうになった。ごまかしにもなっていない返事に、日和は首を傾げた。
「変なジュンくんだね。そんなに眠いのかねぇ。ほら、寝ようね」
「あんたに変とか言われたくねぇんですけど」
「はいはい」
 テレビが消え、歌声は唐突に途切れた。それでも室内はぼんやりと明るく、そこでようやく外が白み始めていることに気がついた。
 日和の中のアイドルが、今もこの頃の凪砂と日和であることが、きっと自分は悔しかった。言えばからかわれるだろうから、絶対に言わないけれど。
 自室まで手を引かれながら、日和の鼻歌を最後まで聴けなかったことを、ジュンは少し惜しく思った。

2018/5/3

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