宇宙に雨は降らない

「うん、そうだね、今日は帰ろうね!」
 日和の声はいつも不必要に大きくはきはきとしていて、どう頑張っても聞き間違えようがない。
 それでもなお、ジュンはなにかの聞き間違いではと思った。
 日和はこちらには目もくれず、汗で首筋にはりついた髪の毛を払い、さっさとレッスン室の出口へ向かった。
「……はぁ?」
 思わずとげとげしい声が出た。ダンスレッスンのトレーナーも戸惑った様子で、ジュンと日和を交互に見ている。
「えっ、巴くん?」
「いや、あの、すみません。ちょっと」
 他の数名のスタッフにも謝りながら、本当に出て行ってしまった日和を追う。なんなんだ。いつものわがままか、と思うと舌打ちを我慢できなかった。一体、何がスイッチになったのかまったくわからない。
「おい、あんた!」
 すたすたとシャワーへ向かう後ろ姿を追いかけ、その腕をつかんだ。わ、と日和が声を上げる。その拍子に荷物が落ちたけれど、構っている余裕はなかった。
「なあに、ジュンくん」
「いや、なにって、何考えてんっすか。帰るじゃねぇし。まだ時間残ってるし、そもそも」
 そこで言いよどんだのは、今日のレッスンの流れを止めているのは自分だという自覚があったからだった。そもそも全然できていない、と言うなら、その理由の半分どころか八割ぐらいはジュンのせいだ。
「はなして」
 黙ってしまったジュンに、日和が正面から視線を向けた。汗に濡れ乱れた前髪の間からのぞく、藤色がかった瞳からは、日和が何を考えているのかまったく読み取れない。それにひるみ、反射のように力を緩めた。
「ジュンくん、馬鹿力なんだから。そんなに強く握られたら痛いね」
「……すんません」
 ジュンの手から取り戻した腕をさすり、日和は落ちたバッグを拾い上げた。
「別にジュンくんまで帰らなくってもいいね。好きにして。ぼくは帰るから。着替え、ロッカーに置いとくから持って帰ってきてね」
 これがまだ、ジュンの不出来を責めたり、怒ったりするような口調だったなら、よほどよかった。
 なんなんだよ、マジで。そう喚くこともかなわず、ジュンは茫然と日和の後ろ姿を見送った。


 スタッフに頭を下げ、日和の代役とのレッスンをなんとか終えたころには、ジュンはへとへとだった。いつもの倍どころか五倍ぐらい疲れた気がする。最後までうまくいったという感覚が掴めないままだったことも、ジュンの焦燥を煽った。
 ごつん、とロッカーの扉に額をぶつける。苛立ちのままにこれを殴れたらすっきりするかも、という考えが一瞬頭をよぎったが、すぐに打ち消した。怪我でもしたら、本当に何を言われるかわからない。
 見限られたのか、と思うと、心臓の裏が冷たくなるような心地がした。
 日和の考えることは、ジュンにはよく理解できない。言動と考えが一致しない人間だということはようやくわかってきたけれど、だからといってさっきの言葉の裏にどんな思惑があるのか、ジュンにはまったくわからなかった。
 ジュンが今までに出会った人間の中で、日和は最もよくわからない存在だ。今まで当たり前だと思って生きてきた常識がことごとく通用しない。それと同じで、日和が日和の考えに基づいて起こしているらしい行動が、ジュンにはまったく理解できなかった。まるで、ルールのわからないスポーツをやっているような気分だ。
 もしくは、まったく文明の違う星の異星人との交流。
 重い体を叱咤し、ジュンはのろのろと着替えをした。今日はもう仕事はなかった。いつもよりも早く時間が空くから、と、買い物に付き合えと言いつけられていたことを思い出す。日和は自分で持ちきれないほどに買い込むことが好きなので、荷物持ちで駆り出されるのはいつものことだった。この約束はまだ有効なのだろうか。
 気が重い。顔を合わせなにかを言われるのも嫌だし、なにも言われないのはもっと嫌だ。
 このまま帰ろうか、と思ったところで、帰る家も同じなのだ。本当に逃げ場がない。
 もう何度目かわからないため息をついたときに、スマートフォンの通知音が鳴った。


「遅いね!」
 座ったまま、日和はテーブルの横に立つジュンをじろりと睨み上げた。
「はあ。すんません」
「早くって言ったでしょ。もうぼく、退屈で。これじゃあ動けないし」
「はあ」
 日和が買ったと思われるショップの袋は、四人掛けのテーブルの空いた椅子をふたつ占領している。そこそこ混み合っているカフェなのに、ひとりで大きなテーブルに通されているのは、きっとこの大荷物のせいだろう。
 白を基調にしたかわいらしい店内を見回した。学校帰りだと思われる学生や、若いカップルばかりで席はほぼ埋まっている。顔と名前が売れていないわけでもないのに、ひとりでここに入り、ひとりでお茶を飲んでいる日和は、いつもながら周囲のことをあまり気にしていない。
「ジュンくん、ほら、突っ立ってないで座るね」
 日和が自分の斜め前の椅子を指す。仕方なく、そこにも乗っていたショッパーをどけて、ジュンは席についた。
「重い物でもあるんですか?」
「ううん。だいたいは服だね」
 すかさず、いらっしゃいませ、とメニューを差し出された。断ろうとする前に日和がそれを受け取る。
「もう出るんじゃないんですか」
「うん。ぼく、キッシュを食べようと思ったんだけどね? このお店のおすすめはフレンチトーストらしくってねぇ。どっちも食べたいんだけど、さすがに両方は無理だからね。だから、ジュンくんはフレンチトーストを注文するといいね!」
「いや、オレは」
「ほら、どれがいい?」
 人の話を聞かないのはいつものことだ。それにしたって、どれがいい、と言いながらジュンが答える前にじゃあこれね、と注文するぐらいなら訊かなければいいのに。呆れるを通り越して脱力した。
「ジュンくん、何飲む?」
「……コーヒーで」
 結局ジュンの意見が通ったのはそれだけだった。さっさと注文を終え、日和は店員ににっこりと微笑む。こういうところで愛想の安売りをするのはやめてほしい。
「こんな目立つとこでなにやってんすか、ほんと」
「べつに? 見られて困ることはないからね。そんなの気にしてたらなんにもできないね」
 日和にとってはそういうものかもしれないが、自分はまだそこまでの気持ちにはなれない。今も、近くの女子高生が玲明の制服の自分たちをちらちらと盗み見ている気がする。
 言葉通り、そんな店内を気にする様子もなく、日和は悠々とティーカップを口元へ運ぶ。日和がなにも言わないと、ジュンもなにを言えばいいかわからない。手持ち無沙汰に、グラスの水を喉へ流しこんだ。水分はとっていたつもりだったけれど、それでも喉が渇いていたことに今更のように気がついた。
 重苦しい沈黙が落ちる。汗をかいたグラスの中で、からん、と氷が鳴った。
 気まずい。
 どこを見ればいいのか迷って、なんとなくテーブルの上の水滴を眺めた。この沈黙を居心地悪く思っているのはきっと自分だけで、日和は髪の毛の先ほども気にしていないのだろう。そのことがいっそう、ジュンの気持ちを落ち着かなくさせた。
 ほどなくして、飲み物が運ばれてきた。日和のティーポットも交換される。コーヒーの香りに、助かった、という気持ちになった。
 日和が紅茶党なのもあって、最近はもうあまり飲まなくなってしまったコーヒーを一口含む。久しぶりに飲むと美味しい。
「それで?」
 唐突に、日和が口を開いた。
「え?」
「なにか、ぼくに言いたいんでしょう」
 当たり前のような顔で言われ、胃が冷えるような気がした。なにか言ってほしい、と思っていたはずなのに、いざそうなるとと体が竦む。
 黙ったジュンを横目に、日和は落ち切った砂時計をふたたびひっくり返した。視界の端に、さらさらと色つきの砂が流れ落ちるのが目に入る。ジュンの言葉を待っているのかしばらく日和は黙っていたが、ジュンがなにも言わないとわかると、たっぷりと間を取った後、もったいつけるように口をひらいた。
「ジュンくん、どうしてできないの?」
 嫌味かよ。いつもならそう言い返すこともできたのに、今はそれもできない。
「……オレの実力不足ですねぇ」
「そういう返事を聞きたいんじゃないね」
 ジュンの声に被せるように言い、日和が肩をすくめた。
「ジュンくん、ずっと調子が悪かったね。いつもならできてることさえもできてない。気が散ってるとしか思えないね。体調が悪かったの?」
「……いや、そういうわけじゃ」
「ぼくには言えないの? それとも、本当に自分でわかってない?」
 畳みかけられ、黙ったことがもう答えだった。
「べつに、言いたくないならいいけどね」
 日和の手が白いティーポットをゆったりと持ち上げる。同じく白いカップを紅茶で満たしながら、日和は、
「でももう、ご実家に帰るのは、時と場合を考えたほうがいいね」
と、言った。
 ジュンは一瞬言葉を失う。見抜かれていた。自分はそんなに態度に出ていたのだろうか。どう返そうか迷って、でも目の前の日和が涼しい顔をしているから、結局はごまかせなかった。
「……あんたさぁ~、性格悪ぃって言われません?」
「そんなこと面と向かって言うのは、今はジュンくんだけだね!」
 おかしそうに目を細める様子に、わかってんじゃねぇか、と思うと、妙に格好をつけようとしていた自分が馬鹿馬鹿しくなった。細く息を吐き出す。一緒に、強張っていた体からも力が抜けた。
 もう関係ない、と思っている。思っているつもりだった。なのに、今でも顔を合わせると気持ちが揺れる。そのことに、自分でも動揺した。
 それが昨晩のことだ。
 カップをティースプーンでかき混ぜながら、日和は考え込むように宙を見た。
「きみが、おうちのことを気に留めるのは、ぼくもまあわからないでもないからね。悪いとは言わないけど。でも、もういちいち従う必要はないんじゃない? きみはきみで、つまりジュンくんとジュンくんのお父上とは、別の人間なんだからね」
「……それは、わかってますけどねぇ」
「そうかねぇ? じゃあまあ、まだ実感として伴っていないってことかもね!」
「わかんねぇっすけど、自分では」
 すみませんでした、と、ようやく言えた。
「なにが?」
「公私混同、って言うんですかねぇ。迷惑かけて、すみません」
「べつに? ぼくは、ジュンくんの調子が悪い程度で左右されるような存在じゃないからね! ただ、レッスンに集中できなかったのはよくないね。あんな調子でだらだらやったって、はっきり言って時間の無駄だからね。ぼくのレッスンにもならないしね! それならこうして、ゆっくりとお茶でもしてリフレッシュしたほうがずいぶんとましだね!」
「……労わられてんのか、怒られてんのか、わかんないんっすけどぉ」
「前者のわけがないね! ジュンくんの馬鹿!」
 わざとらしく息を吐き出して、日和はカップに口をつける。
「そうだね。まだ、ジュンくんはわからないんだね。自分がどうなれるのか、どうなりたいのか。まあしかたがないね! ジュンくんはまだ、今やっとひよこになったようなものだもんね。お尻に殻がくっついてても、それはそれで愛らしいかもしれないしね!」
「馬鹿にしてんっすか」
「馬鹿にはしてないね! ただ、そろそろわかってほしいとは思ってるね。ぼくも、気が長い方じゃないしね。飽きちゃうと困るね、ぼくもお客さんもね!」
 体の前で腕を組んで、日和はゆったりと背もたれにもたれ、かたちの良いくちびるの両端を吊り上げる。
「漣ジュンくん。ぼくは今、きみとユニットを組んでいるんだからね」
 その笑みは、日和がよくステージで見せるものだった。
「誰でもない、この、巴日和がね」
 心臓がどくりと鳴った。反射のように、舞台上の日和のことを思い出す。それと対峙するときの、ぞっとするような興奮も。思わず、椅子の上で手を握った。手のひらに爪が食い込み、痛いほどに強く。
「……わかってますよ」
 そうしてやっと出てきたのは、つまらない返事だった。
「そうかな? まあ、忘れちゃったら何度でも思い出させてあげるね! きみがぼくの相方であるかぎりね!」
 失礼します、という声とともに、日和のオーダーしたキッシュのプレートとフレンチトーストが運ばれてきた。おいしそうだね、と日和の声が弾む。たっぷりの生クリームとアイスクリーム、それにベリーがふんだんに散らされているフレンチトーストは華やかで、確かに美味しそうだ。おそらく、この大半は日和の胃の中に入るのだろうけれど。
「ほらほらジュンくん、ちゃんと写真撮ってね! 昨日からSNSの更新をさぼってるでしょ? ぼくたちが仲良くお茶をしてる写真を上げたら、きっとみんな喜んでくれるからね!」
 冷めちゃうから早く、と急かされる。
「は? ええと、ちょっと待ってくださいよぉ」
 しかたなく、言われるまま、プレートを前にアイドルスマイルをきめている日和を画面の中に収めた。角度を変えながら、数枚シャッターを切る。さっきまでの物騒な様子が嘘のようにはしゃぐ日和を見ていると、どっちが素なのかがよくわからなくなる。きっと、どちらも本物であるにしても。
 日和に突き付けられた課題は、きっと間違っていない。ただ、今のジュンは、その答えを持ち合わせていなかった。先延ばしになった回答に安堵して、けれど近いうちに答えを示さなければいけないことを、痛いほどに感じる。
「ねえ、どう?」
「いいと思いますけど」
 覗き込んできた日和に画面を見せた。日和は満足そうにうなずく。
「うんうん、大丈夫だね! ほら、ジュンくんも撮ってあげる。あ、でもなんか、このフレンチトーストが前にあるとすごいかわいらしい画になっちゃうね。ジュンくんには全然似合っていないね!」
「いやもう今更でしょ、いつものことだし」
「それもそうだね!」
 ジュンも日和の構えるレンズに向かって、同じように笑顔を作った。カシャ、とシャッター音が響く。
 どういうタグをつけて投稿しようかと考えながら、ジュンは目の前のあまったるそうな生クリームをフォークですくった。

2018/5/3

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