WONDER WONDERFUL

 頭を上げる。その拍子に、こめかみから汗が伝うのがわかった。解散の空気に、周囲がざわざわと動き出す。歩み寄ってきたマネージャーから、ジュンはタオルとボトルを受け取った。
「ジュンくん、ぼくのも」
「あ、はい」
 巴、とネームの貼られているボトルは、ジュンと揃いのものだ。クリアのライムグリーンのドリンクボトルには白でツアーロゴがプリントされていて、女の子でも使いやすいように、と大きすぎないサイズになっている。明日の初日より一足先に、日和とジュンに配られたものだった。
 自分の中身は薄めたスポーツドリンクだが、日和のものには、おそらく今日も妙な味のハーブティーが詰められているのだろう。
「ありがとう」
 さっきまで挨拶をしていた日和も、いつになく汗をかいていた。ジュンから受け取ったボトルの半分ほどを一息に空け、当然のような顔でまたジュンへ押し付ける。当たり前のように受け取ってしまう自分も、もう大概だ。
 普段が普段なので忘れがちだが、日和はこういうことがとても得意なのだった。つまり、言葉や態度で人を鼓舞し、その気にさせることが。
 当日のゲネプロはまだ残っているが、最終のリハーサルにふさわしい挨拶をそつなくこなす様子に、ジュンは心の中で舌を巻いた。ここだけを切り取って聞けば、たしかに普段の突拍子のなさは想像できないかもしれない。
 一度意識すると後から後から流れてくるような気がする汗を、ざっとタオルで拭った。衣装を合わせたリハーサルは、とにかく暑い。アンコールはこれもツアーグッズのTシャツであるにしても、本編の衣装はEveのコンセプトに合うような装飾の多いものがほとんどで、つまり重い上に暑い。
 ジュンにとっては、すべてが慣れないことばかりだ。
 マネージャーの話す明日の段取りを頭に入れる。今日はこれで早めの上がりだった。
「お疲れさまであります!」
「うわ」
 背後からの大声に、ジュンと日和は揃って驚いた。振り返ると、顔ににこやかという文字を貼り付けているような、いつもの茨がいた。
「びっくりしたね! いつからいたの」
「後半一時間ぐらいですねぇ! こっそり見学させていただいてました! さすが日和殿下、客席から見るとやはり自分のようなものとは格が違いますね! 自分はまだまだ未熟ですので、同じステージからですと今ひとつ余裕がなくてですね、映像では何度も見させていただいていましたけどもね! ジュンもお疲れさまです、正直どうなるかと思っていたんですがなかなかどうしてっ、いいじゃないですか! やはり殿下は見る目がありますね! あ、閣下ですか? 閣下は今日はご予定があるとかで先に帰しましたが、明日はちゃんとふたりで見に来ますからね! いやあ楽しみです、チケットも完売御礼どころか各会場足りないぐらいでもう! 笑いが止まりませんよ!」
「……よく喋るね」
「いや、あんたもどっこいどっこいですよ」
 ふたりしてつつき合っているのも意に介さないぐらい、茨はやたらと機嫌が良い様子だった。
「それ、おふたりに使っていただいてるボトル、なかなか評判がいいんですよ! やっぱりSNSで画像を上げていただいたのはよかったですね! 事前販売では完売ですし、当日分も足りるかどうかっ」
 なるほど、上機嫌の理由はチケットに加えグッズの売り上げらしい。好調だとは聞いていたが、それほどだとは初耳だ。
 Eden、それに加えてAdamとEveの、外回りも含めた総合プロデュースは主に茨が中心となっている。この多忙の中どこにそんな余裕があるのかが不思議だったが、茨は嬉々とした様子で率先して動いていた。
 物事を動かすことが好きな茨にとっては、グッズひとつについても、売り上げそのものは当然として、自分の思惑通りにいろいろが進んでいることが何より楽しいのだろう。
 言われた通り、ふたりでツアーグッズを持って撮った写真をアップしたことを思い返す。日和は仕事のアカウントは真面目に動かしているものの、基本的にあまりSNSを構わないほうだ。茨やジュンがそちらに強いことも理由だろうけれど、そもそもあまり興味がないのだと思う。
「ふうん。まあ結構なことだね! それはそれとして、もう用事がないなら、ぼくたちもそろそろ帰りたいんだけどね! 明日に備えて、わざわざ早上りのスケジュールなんだしね?」
「これはこれは失敬! 申し訳ありませんっ」
 日和の嫌味も茨には通じない。あれこれと口早に明日のこととそれ以降の伝達事項をまくしたて、では車を手配しておきますね! という言葉を残し、茨は嵐のように去っていった。帰り際に腕時計を確認していたから、きっとまだこれから仕事をするのだろう。自分を含め、四人のスケジュールを完璧に把握しているのには頭が下がる。
「なにあれ。やかましかったねぇ」
「いやだから、あんたにだけは言われたくないと思いますけど、茨も」
「なに? ジュンくんはどっちの味方?」
 日和がじっとりとジュンを睨めつける。
「事実っすよぉ」
 マネージャーによると、迎えは一時間後らしい。ジュンひとりならば余裕だが、日和はやたらゆっくりと身支度をするから、急かしてもぎりぎりだ。
「ほら、もう車来るらしいっすから。さっさと支度しましょう」
 まだ不満そうにしている日和をシャワー室へ急き立てた。結局それでも間に合わず、しばらく車を待たせてしまった。平気な顔をしている日和の代わりに謝ることにもすっかり慣れてしまったな、と、ジュンは後部座席で遠い目になった。


「最悪っすねぇ……」
 自室のエアコンを睨み、ジュンは唸った。
 ちゃんと湯船に浸かりストレッチをして、いつも日和からうるさく言われる肌の手入れもフルでこなし、さあ、とベッドに入ろうとしたときに気づいた。エアコンが、壊れている。リモコンのスイッチを押しても、本体はうんともすんとも言わない。電池切れでもなさそうだ。
 さすがにこの時間ではどうしようもない。今日の昼間は真夏並みまで気温が上がったせいで、夜になっても部屋の空気はどこか淀んで蒸し暑かった。窓を開けてみても、外の気温は室内と大差がない。窓を開けたまま眠ることも憚られて、やむなくジュンはリビングで休むことにした。
 タオルケットだけを持ち出し、ソファーに横になる。さっきまで冷えていたリビングは過ごしやすく、すこし寝心地が悪いことを差し引いても、ジュンの部屋よりはだいぶましに思えた。
 明日は早いとはいえ、今からなら十分睡眠時間は確保できる。おさまりのいい体勢を探して、何度かソファーの上で寝がえりを打った。
 体を丸め、横向きになりうとうととしていると、突然リビングの電気が点いた。同時にがくん、と踏み外すような感覚がして、ジュンは跳び起きた。
「ジュンくん?」
 一度開けた目をまぶしさにまた閉じる。怪訝そうな声は、もちろん日和のものだった。
「えっ、こんなところでなにしてるの? どうしたの、それ」
 まぶしさに目がちかちかして、うう、と声が出た。
「いや、あの、部屋のエアコンが調子悪くて。全然冷えねぇし暑くて寝てらんねぇしで、今日はここで寝ようかと」
「だめ!」
 最後まで言い終わる前に、日和が目を吊り上げた。
「ジュンくん、こんなソファーなんかで寝て、疲れが取れるわけがないね! 明日は大事な日だからね! これに万全の体調で望まないなんて、本当に悪い日和!」
 その剣幕にジュンは若干腰が引けた。もともと日和は自己管理にはうるさいが、これほどまでに怒られたことはない。このソファーにしたって、日和の好みでふたりの住まいには不釣り合いなほどに大きいのだ。体を伸ばしてとはいかないにしても、一晩寝るのに不自由はない。
「いや、べつに、ていうか前の家のベッドなんてこのソファーとあんま変わんなかったっすよぉ」
「そりゃあ、ジュンくんはどこででも寝られるかもしれないけどね! ぼくの意識が許さないね!」
 おいで、と手を掴まれた。
「え?」
「ぼくの部屋で寝ようね。そりゃあ、ぼくにとっては邪魔だけどしかたないね。ソファーよりはましだから」
 今度こそ本当に引いた。自分の顔が引きつるのがわかる。日和の自室にはたしかに馬鹿でかいキングサイズのベッドが置いてあるが、それ以外に寝具はない。
「はあ? あの、嫌なんですけどぉ」
「嫌とは失礼だね!」
「普通に嫌でしょ! なにが悲しくてあんたとふたりで同じベッドに寝なきゃいけないんっすかぁ」
「ジュンくんのためを思って言ってるのに!」
「いや、ありがた迷惑って知ってます?」
「ジュンくんのくせに! 生意気!」
 言い合いながらも有無を言わせず引き起こされる。半ば無理やりのように、日和はジュンを自分の部屋に引きずり込んだ。
 日和のベッドは本当に大きい。マットレスなど、どうやってこの部屋に入れたのか不思議になるほどだ。キングサイズのシーツを洗濯し干すだけでもだいぶ手間がかかることを、ジュンは日和と住み始めて初めて知った。
「ジュンくん、奥行って」
「ええ……本当に大丈夫ですけどねぇ、リビングで」
 悪あがきのようにもう一度言ってみたが、言い出した日和は、こちらの話など一切聞く耳を持たない。
「ほら。もう寝なきゃね。ぼくも眠いしね」
 よくスプリングのきいたマットレスにしぶしぶ上がる。日和が好むコットンのシーツの手触りはさらさらとしていた。他の誰でもなく、昨日ジュンがベッドメイキングをしたものだ。ハウスキーパーはいても連日入ってもらっているわけではないので、不在の日にはしかたなくジュンがやっている。
 ひとの寝床は落ち着かないことこの上ない。横になると、リネンスプレーのグリーンの香りと、日和が好む甘めの香水の香りがふわりと漂った。
「おやすみ」
「はあ、おやすみなさい」
 日和が照明を落とす。真っ暗ではなく、シルエットが見えるか見えないかという程度の闇に部屋が沈んだ。日和の手が薄手の肌掛けを引っ張る。
「そっち、足りてる?」
「まあ、大丈夫っす」
「温度は? ぼく、あんまり寒いのは嫌だからね」
「大丈夫です」
「眠れる?」
「眠れますよぉ」
 日和からこんなに構い倒されることはめずらしい。ひょっとして、と思いたち、そうすると口にせずにはいられなかった。
「もしかして、緊張してます?」
 天井を見ていた日和の頭が、こちらを向いた。まだ暗さに慣れないせいで、表情はよくわからない。
「緊張?」
「オレにこんなにあれこれ言うの、珍しくないっすか」
「うーん……? そうなのかねぇ?」
「いや、知らねぇっすけど」
 自覚はないらしかった。そうかね、どうだろうね、とひとりごとのように言い、日和は体ごとジュンの方へ向き直る。
「まあ、平常心ではないかもね。ぼくにとっても、ぼくらのEveとしての単独の初ライブはこれが正真正銘、初めてだしね」
「なんか変な日本語っすねぇ」
「揚げ足を取るのはやめてほしいね! ジュンくんは? 緊張してる?」
 眠れると答えはしたが、体は疲れているのに頭の芯は妙に冴えている。だんだんと目が慣れてきて、こちらを見ている日和と目を合わせる。
「たぶん、してます」
 日和が、ゆっくりと瞬きをした。なにかを考えているときに、よくしている仕草だ。暗い中で、日和の青白い白目がやけに光る。
 緊張しているという言葉がふさわしいのかはわからない。それでも、油断するとなにかに飲みこまれてしまいそうなこの頼りない感じは、言い表すとするならば緊張や不安なのだろう。
 うまくやれるのか、やらなければ、という気持ちはもちろんある。そしてそれと同じぐらい、自分がステージの上で何を感じ、何を思うのかが怖かった。
 あれだけ焦がれていた場所に立ったとき、自分はいったい、どういう気持ちになるのだろう。
「よかった。それでいいね」
「え?」
 日和の目元が緩む。てっきり、たしなめられるものとばかり思っていたから、肩透かしを食ったような気分になった。
「ぼくたちの心が動かないと、お客さんの心を動かすことなんてできないからね。ぼくたちが愛を注げば、お客さんはそれを返してくれる。ちゃんと感じてさえいれば、あとは気持ちのままに振る舞えばいいだけだね」
 日和の言葉は、平易なようでひどく難しい。わからない、という顔をしてしまったのだろう。わからなくてもいいね、と言われてしまった。
「意外と簡単なところに答えはあるかもしれないしね!」
「……経験談ですかぁ?」
「さあ? ほら、寝ようね。眠れなくても目を閉じているといいね!」
 ヘッドボードの時計を確認すると、確かにもういい時間だ。
「おやすみ、ジュンくん」
「おやすみなさい」
 日和に背を向ける。眠れるか心配だったけれど、やはり体は疲れているようで、体がずぶずぶとマットレスに沈み込んでいくような心地になる。
 隣にいる日和の気配を感じながら、ジュンはうとうとと目を閉じた。

2018/5/3

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