スポットライト

 初めて踏んだステージは、事務所主催のもののゲストとしてだった。ライブハウスとしてはかなり大きい、というぐらいの箱で、ゲストという名目ではあったものの他は学内のほとんど知名度のない新しいユニットの出演ばかりであったから、実質はEveが目玉といってもおかしくなかった。
 これ埋まるんですかねぇ、と思わず言ったジュンに、日和は何を言っているのかという態度で首を傾げた。
 その理由がわかったのは、ステージの幕が上がったときだった。前売りは完売、当日券も早々に売り切れました、と言われただけでは実感できていなかった存在のことをありありと突きつけられて、ジュンは衝撃を受けた。ここに集まるほとんどの人間が、おそらく日和を見に来ている。
 その日の出来のことは緊張であまりよく覚えていない。映像を見ても、これが本当に自分なのかと思うほど、しっくりとこなかった。後日、日和から鬼のようにダメ出しをされたので、見るだけは何度も繰り返して見た。
 そこから何度かEveとして、Edenとしてもステージに立った。主にイベントやゲストとしての出演で、EdenはこのEveとしてのライブツアーの後に単独でのステージが決まっている。
 つまり、自分たちの名を冠した単独のステージは、ジュンにとってはこのEveのライブが初めてになる。
 舞台裏は意外と地味だ。時間に追われながら最終の確認をして、身支度を整え、その間にこまごまとした他の準備をこなす。ばたばたと動き回っているのは主にスタッフで、自分たちはそうでもないにしても、ざわめく雰囲気の中で気持ちの準備をするのはなかなかに難しい。
 昨晩は思ったよりもよく眠れた。日和は朝に強いから、ジュンが起きたときにはもうベッドから出ていたし、いつものようにジュンに朝食作りを言いつけ、いつものようにふたりで向かい合って食べた。
 朝の日和は拍子抜けするほどいつも通りだった。違ったのは、どうせ会場に入ってからシャワーを浴びるから、といつもならやたらと時間をかけるヘアセットをせず、帽子を被って家を出たことぐらいだ。
 家を出るときには下りていた髪の毛は今はふわふわと遊ぶように整えられている。目線は正面のまま、されるがままに衣装のチェックをされている様子はもうアイドルとしての巴日和そのものだ。自分も同じであるにしても、いつも不思議な気分になる。
「漣くん、こっち、腕上げてください」
「あ、はい」
 肩の装飾の乱れを直し、ぐるりとチェックをされてから、オッケーが出た。
「こういうとき、何を言えばいいんだろうね?」
「はい?」
 襟元を整えられている日和は、やはりこちらを見ない。普段、こうしてまじまじと横顔を見ることはあまりない。無表情とも違う、真顔の日和は特にめずらしかった。まばたきをするたび、日和の長く濃い睫毛が目を惹く。
「やっぱり、ぼくも少し緊張しているのかもね!」
 ふいに、日和がジュンの方を見て、いつもの食えない顔で笑った。すっかり気を取られていたことに気づかれないように、まじっすかぁ、と返す。
「全然、そう見えないっすけど」
「そりゃあね。見てるひとたちを不安にさせるようなのは二流もいいところだね」
 ありがとう、とスタッフへ礼を言い、日和はジュンのすぐ隣へ立ち並んだ。
「言ってほしいことを言ってくれる存在、欲しいものをくれる存在に、ひとは従いたくなるものだね。同じように、楽しみたくて、夢を見たくて、愛したいひとたちは、そうさせてくれるアイドルを愛するね。期待に応えられなければそれは失望に、愛は憎しみに、羨望は軽蔑に。ひっくり返るのは一瞬だね!」
 日和の言葉は、容赦なくジュンの心臓に刺さる。思い出すのは、当然のようにあのことだ。
 ジュンにとって、ステージは悪いことが起こる場所でもあった。底深くに植え付けられた意識は、前触れなくジュンの感情の表面に現れては心を乱す。それがまったく怖くないといえば、嘘だった。
「でもね! だからこそ、すばらしいと思わない?」
 高らかに言って、日和は大袈裟に腕を広げた。まるで、ここがステージのように。ジュンは一瞬、呆気に取られる。
「……すげえ自信っすねぇ」
「当然だね! ぼくはぼくを信じてるからね!」
 いかにも日和らしい。ジュンは思わず苦笑した。これがただのはったりではないのが、日和のおそろしいところだ。
 日和が、まっすぐにジュンと目を合わせる。正面からその強い視線を受け止めると、ジュンはいつも胸の内を射抜かれるような気分になる。たじろぎそうになって、気づかれないように足に力を入れた。
「同じように、ジュンくん、きみのことも信じていいと思ってるね。だからぼくの隣に立っているんだって、忘れないでね」
 静かな言葉だった。思いがけず、ジュンは息を呑んだ。
 信じている、なんて甘言めいた響きが、日和が言うとまるでそう聞こえない。毒が塗られた刃物を当てられているようだ。なにかあればそれがすぐに引かれることを、ジュンはきっと誰よりもよく知っている。
 そう思うのに、勝手に口元が笑うのがわかった。それに興奮している自分も、きっと気がおかしい。
「いつも通りだよ、ジュンくん。このぼくがいる限り、今夜はすばらしいステージになるね。ジュンくんが無理していいところを見せようとしなくってもね!」
「あんた、いっつも一言多いですねぇ」
「本当のことだね!」
 さあ、とステージに向き直りかけた日和の腕を、一度だけ強く引いた。
「オレだって、信じてますよ」
 日和のことも、ジュン自身のことも。一度口に出してみれば、ずっと前からそうだったような気がした。
 きれいなアーモンド形の目がまるく開かれる。その藤色のひとみの中には、無数の色が舞っている。すぐにそれはきゅっと三日月のかたちになって、日和は笑い声を上げた。
「いい子だね、ジュンくん!」
「その『いい子』ってやめてくれませんかねぇ」
 開演までの時間を告げる声が響いた。客入れのSEが徐々に盛り上がる。客席が暗転するまで、あとわずかだ。


 最後まで手を振って、袖に入った瞬間、かくん、と膝が折れた。まったくの不意だった。
「ジュンくん!」
 転ぶ、と思ったのを、日和に支えられた。力強く腕を掴まれる。おかげで、あやうく転倒を免れた。
「……っぶねぇ」
「っふ、あはは! ジュンくん、大丈夫?」
 頭上から声が降ってきて、ジュンはそれを仰ぎ見る。普段よりも少し息は弾んでいるけれど、よく通る、いつもの日和の声。薄暗い中で見上げた顔は自分と同じで汗で濡れていて、漏れてくるライトの光にきれいな輪郭が浮かび上がっている。日和は、見たことがない顔で笑っていた。
 はい、と答えたと思う。
 ジュンの腕を引き寄せ、立ち上がらせてから、日和は客席の方を振り返った。紫の目の中にまだ暗い客席で揺れる白とライムグリーンが反射して、きらきらと光る。
「ねえ、ジュンくん。楽しいね。最高だったね!」
「……はい」
 今度こそ、しっかり返事をした。
 さっきまで歌い踊っていた自分と、今こうしている自分がまったく別の存在のように感じる。けれどそれは確かにひと続きだ。まだ逸る心臓が、内側から胸を叩いているのを感じる。
 満足そうに、日和は目を細めた。
「ほら、見て。ここにあるのはぼくたちの愛だね。すばらしいね。こんなに楽しいことはないね!」
 頭の中のライトの海と、今の目の前のそれが重なって、目の奥が熱い。耳の中には、まだメロディーが残っている。自分がどうにかなってしまいそうだと思った。
 ずっと、日和の言うことがよくわからなかった。けれど、これが日和の言う愛なら、愛とはなんて激しくてまぶしいものだろう。なにかを言いたいのに言葉にならず、思考は散り散りで、ただ高揚感だけが胸にある。
 自分がここに立つ意味はなんだ。憧憬か、復讐か、それとも他の、もっと別のなにかなのか。
 ここでそれを知りたい。今、強く思う。
 このまま燻っているつもりはなくて、でもどうすれば這い上がれるのか見えなくて、もがいていたときに出会ったのが日和だった。ジュンにとっては、それが誰だってよかった。ここから自分を引き上げてくれる誰かなら。たとえどうなったって、今よりも悪くことなんてない。それまでのジュンの日常は、そういうものだった。
 だから、日和の手を取ることに迷いはなかった。それが日和以外の人間でも、きっと同じようにした。選んだのは日和の方だ。ジュンはずっとそう思っていた。
 今初めて、ジュンは日和の手を選ぶ。自分はこの欲望に、今、名前をつけるのだ。
「あはは! ジュンくん、泣いてるの?」
「泣いてませんし。うっせえですよ」
「ジュンくんもかわいいとこあるね!」
 日和はスタッフからタオルを受け取り、そのままジュンに頭からばさりと被せる。
「ほらほら、ちゃんと身支度して。またお客さまの前に出なきゃいけないんだからね!」
「……まじっすかぁ」
「当たり前! ジュンくんには聞こえないの?」
 聞こえないわけがない。アンコールの声、それに混じる自分たちの名前。
 タオルを顔に押し当てながら、叫びたいような気持ちを押しとどめて、ジュンはその声に耳を澄ませた。

2018/5/3

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