エピローグ

 気付かないうちにまどろんでいたのかもしれない。扉越しに、大丈夫ですかぁ、というジュンの声が聞こえて、日和は我に返った。
「おひいさん~、寝てません?」
 返事をする前に、バスルームの扉が開いた。部屋着にエプロンを身につけたジュンが顔を覗かせる。慌てて浴槽の縁に乗せていた頭を持ち上げた。
「寝てないね!」
「あ、よかった。あんまり出てこないから溺れてんのかと思ったじゃないですか。ひとにはうるさいくせに。ぼちぼち飯っすよぉ」
「そんなヘマしないね! ところで、その『おひいさん』ってなに?」
 聞き間違いでなければ、たしかに今ジュンは自分をそう呼んだはずだ。
「え? あんたのことですけど。ぴったりでしょ? なんにもやらないあんたのお世話を全部やってるオレの身にもなってくださいよねぇ」
 ふふん、という顔でジュンは言った。
「それ、男子高校生につけるあだ名としてはちょっと不適切じゃない? まあそりゃあ、ぼくの外見はお姫様のように愛らしいからね! そう呼びたくなる気持ちもわからなくはないけど!」
「いや、見た目は愛らしいっていうか……? どっちかっていうと物騒ですよ、あんた」
「ほんっと、最近ジュンくんのくせにぼくに失礼だね? ぼくがその気になれば、ジュンくんなんてまた下水道みたいな生活に逆戻りなんだからね!」
「はいはい、そうっすねぇ~」
 いかにもあしらうような言い方が気に食わない。バスタブの湯をひっかけてやろうとしたら、すばやくそれを察して引っ込まれたことも気に入らない。
 憮然とした気持ちのままでパックをして、もう一度湯に浸かってからバスルームを出た。
「ねえ!」
 最近、生活においてどんどん自分の扱いが雑になっている気がする。今日こそ一言文句を言ってやろうという思いを胸にリビングに入ると、カウンター越しのジュンが日和を見て眉を寄せた。
「なんで髪乾かしてこないんですかぁ。ほんと、ひとには言うのに」
「あのね、ジュンくん」
「もういいです。ほら、座ってくださいねぇ」
 あれよあれよという間にソファーに座らされ、気づけばドライヤーで髪を乾かされている。おかしい。確かに髪を乾かしてと言いつけたことは何度もあるけれど。
 ちゃんとトリートメントを揉みこみ、手櫛で何度も髪の毛を梳かれるのは気持ちがいい。ふかふかのソファーの上ならなおさらだ。忘れていたはずの眠気がよみがえってきて、うとうととまぶたが閉じそうになる。
「ほら、寝てますよ」
「寝てないね」
「寝そうじゃないっすかぁ。寝てもいいですけど、絶対夜に腹減りますよ」
「だから、寝てないね」
「ちょっとしたら起こしますからねぇ」
 だから寝てない、と言いたかったのに、眠気はどんどん強くなり言葉は口の中でもごもごと消えてしまう。ジュンの手が離れて、代わりにブランケットでぐるんと包まれた。本当に、このまま眠ってしまいそうだ。
 ジュンが料理をする音が小さく聞こえてくる。眠りの尻尾に手を伸ばしながら、ジュンは太陽という意味を知っているのだろうか、と日和は思った。

2018/5/3

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