春の嵐

 ジュンが床から立ち上がったのと、ひときわ強く吹いた風が大げさなほどに窓枠を鳴らしたのはほとんど同時だった。天気予報では聞いていたが、今日は荒れるらしい。
 立ち上がりついでにかがめていた腰を伸ばす。日和がいたら年寄りくさいと顔をしかめられただろうな、と思いながら、ジュンは細く窓を開けた。途端、先ほどとは比べものにならないほどに窓はガタガタと音を立て、湿気を含んだ生ぬるい風がまともに顔に吹き付ける。慌ててふたたび窓を閉め、鍵をかけた。まだ雨は降っていないが、この調子ならば時間の問題だろう。まだ午後も早い時間だというのに、窓の外はうす暗い。
 春の嵐、と言った日和のことを思い出す。ちょうど、今頃の季節だった。

 信じられないほどの荷物だった。たいして広くもないこの寮の、いったいどこにどうやってこれだけの物が収まっていたのか。ジュンはめまいがする思いで引っ張り出されたそれらを見つめた後、今までずっとそうしてきたように、諦めた。
「荷造りも引っ越し屋に頼めばいいじゃないっすかぁ。どうせ経費なんですし。ていうか、明日ですよね?」
「明日だね!」
 悪あがきのように言ってはみたが、自室に他人を上げることを好まない日和は首を縦には振らなかった。覚悟を決め、じゃあやりましょうかねぇ、と声に出す。ロゴが印刷された段ボールを開くと、紙の埃っぽい匂いがした。
 整理をしている時間はないので、手近な物から黙々と詰め始める。初めはブラッディ・メアリを構いながら指示だけを出していた日和も、いよいよ終わらなさそうだという気配が濃厚になると、自ら荷造りを始めた。なかなかの手際の良さを横目に、最初からそうすればよかったのに、という言葉はやはり飲み込んだ。
 何時間ぐらいだろうか。そうしてふたりでひたすら荷造りをして、気づいたときにはとっぷりと日が暮れていた。これなら寝るまでには終わるだろう。ジュンはほっとする。この部屋は引き続きジュンが使うことになっているから、すべてを引き払うわけではないにしろ、移動は一回で済むに越したことはない。
 いったん休もうか、それともこのまま最後まで済ませてしまったほうがいいだろうか、そんなことを考えながら段ボールに封をしていると、不意に低く雷鳴が響いた。
「うわっ」
 近い。思わず体をすくめる。日和も目を丸くし、窓の外を見た。ほどなくして、ざあっという派手な雨音が窓を叩き始めた。
「すごいっすね」
「いつの間にお天気が崩れてたのかね、気がつかなかったね。そもそも、もうこんなに暗くなってたんだね」
 雷鳴に驚き飛び込んできたメアリを抱き上げ、日和は立ち上がった。ジュンもなんとなくつられて立ち上がる。外は暗く、様子はよくわからない。部屋の中が明るいせいか、鏡のようにこちらの様子が浮かび上がっているだけだ。
「そうっすねぇ。明日には持ち直すといいんですけど」
 天気予報はどうだっただろうか。晴れだったような気がする。
「大丈夫だね、春の嵐だろうしね。きっとすぐに通り過ぎるね。今までぼくの大事な日に雨が降ったことはないしね!」
「あぁ……なるほど」
 根拠のない自信を相手にする元気はなくて、適当に相槌を打った。窓ガラスに映った日和はめずらしく真顔で、メアリをゆっくりと撫でている。
 その手つきが、あまりに優しかったからかもしれない。
「さみしいんですか、おひいさん」
 気づけば、言葉が勝手にこぼれ落ちていた。言ってしまってから、自分でもうろたえる。冗談やからかいにするには、今のジュンの声音は真面目すぎた。これではまるで、そう、まるで。
「当然だね」
 穏やかに、日和は答えた。
「長い期間ではないにしろ、ぼくたちずっと一緒にいたんだからね。ほんとうに、ずっとね。少しだけさみしいね、ジュンくん」
 窓の外の嵐は、激しさを増すばかりだ。今、この部屋だけが世界から取り残され、しんとしている気がする。
「……そうですね」
 やっとのことでそう返事をした。なんてね、と振り返って笑う日和は、もうすっかり普段と変わらない様子だった。

 そのとき感じたさみしさは、春の嵐が巻き上げた花びらのようなものだっただろう。吹き荒れる嵐はきっとすぐに嘘のように通り過ぎて、その後には暴力的なほどにみずみずしい季節がやってくる。それをもう、今のジュンは知っていた。

 明日、ジュンはこの部屋を出る。

back