跳ぶ前の姿勢は低く、視線は高く

 よくて前から二列目、大体は真ん中、悪いときは一番後ろ。それも数十人の中で。
 ずっとそこが当たり前だったから、というのが言い訳にならないことぐらい、わかっているつもりだった。
 首を回した拍子、額から流れ落ちた汗が目に入る。ジュンが思わず片目をギュッと閉じたのと同じタイミングで、日和のカウントが止まった。間奏の振りに続くステップを止める。
「うーん、ジュンくん、全然ダメだね!」
「っ、はい」
 レッスン中の返事は大きく、はっきりと。そう思うのに一瞬遅れた。流れ落ちる汗を、Tシャツの袖で乱暴に拭う。
 新しい曲はかなりテンポが速くて、振り付けも今までよりも細かく複雑だった。振り入れはしてきたつもりなのに、ついていけない自分に苛立つ。
 鏡越しに日和と目が合う。膝を立てた姿勢から、日和は軽やかに立ち上がった。
「もう一回確認するね」
「お願いします」
 カウントを取り、口ずさむパートはジュンのものだ。同じ時間、同じようにレッスンをしたはずなのに、ジュンの振りまでもう完璧に入れているのが信じられない。
「そこ、もっと大きく、前に」
「はい」
「もっと大きく! なんでそんなに小さくまとまっちゃうかね? もっとだね!」
「はい!」
「ふてくされて返事しないね!」
 もともと大きい日和の声がさらに大きくなる。ジュンも負けじと、はい、と声を張り上げた。ふてくされてねぇし、と心の中で思ったことはきっとばれている。普段はあんな様子のくせに、ことがダンスや歌といったパフォーマンスになると、日和は本当に周りをよく見ているからだ。講師とのレッスンを終えても日和を付き合わせている形なのも、ジュンの焦燥を煽った。
 うーん、と日和が首を傾げる。さっきからずっと、注意されていることは同じだ。
「振りは入ってるのにね?」
「……すみません」
「謝ってほしいんじゃないね! あのね、ここはジュンくんのパートなんだよね。きみが目立たないといけないんだよね。そんなバックダンサーみたいなダンスをしてほしいわけじゃないんだよね。わかってる?」
 見ててね、と言い、日和はジュンの立ち位置に立つ。日和の合図に合わせ、ずっと止めていた音が入った。
 カウントを取るつま先が床を蹴る。ジュンが躓いているフレーズなど軽々と飛び越えるように。ひとつの動作も見逃さないように、と食い入るように見つめた。悔しいけれど、日和の実力は本物だ。同じ振りのはずなのに。
 感嘆、焦り、憧れ、悔しさ。力量の差を感じるたび、いろいろなものがぐちゃぐちゃと入り混じった、言いようのない気持ちに襲われる。自分よりも日和が踊ったほうがよほどいい。頭に浮かんだその思いを打ち消すように、ジュンはぐっと奥歯を噛み締めた。
「わかった?」
「……はい」
 軽く息を乱し、日和が振り返る。ジュンの表情を見て、整った眉を器用に片方だけ上げた。
「わかってないよね? まあぼくのほうがうまいのは仕方がないけど、ジュンくんはこれよりかっこよくやるんだからね!」
 むちゃくちゃだ、と思った。簡単に言ってくれるが、今の自分には難題どころの話ではない。自分の実力が足りないと認めるのはこの後に及んでも悔しくて、けれどそれが分からないほどに力がないわけでもない。
 できません、とは絶対に言いたくなかった。特に日和に向かっては死んでも言いたくない。なんと返事をすればいいのか、迷ってジュンは口をつぐむ。頑張ります? 頑張ってできるのなら玲明の全員がスーパースターだ。
「できないわけがないね!」
 黙ったジュンの心を読んだように、今度は両眉を吊り上げた日和が、スタジオ中に響き渡るような大声で言った。思わず体を引く。いくらなんでも声が大きい。普段の癖で、声がでけぇっすよ、と反射のようにたしなめると、ぼくの声の大きさなんて今はどうでもいいね! とさらに大きな声で怒られた。
「もう、ほんとにジュンくんはわかってないね? だって、これはジュンくんのパートで、ジュンくんのための振り付けだからね! きみがやるのが一番かっこいいのは当然だよね! ぼくたちの仕事はそういうものだね。Eveの巴日和を一番最高に魅せられるのはぼくだし、Eveの漣ジュンを一番魅力的に魅せられるのはきみだね。きみの代わりはぼくにもできないからね!」
 日和は若干声のトーンを落として、それに、と言った。
「漣ジュンがいるから、巴日和はより輝く。それだけじゃなくて、巴日和がいるから、漣ジュンもさらに輝くんだね。ぼくは引き立て役がほしいわけでもなければ、惨めな負け犬に情けをかけたつもりもないからね」
 続いた日和の言葉は意外なようで、けれど前から知っていたことのようで、ジュンはすぐには返事ができなかった。日和の顔を見つめ返す。日和はジュンの目を見つめたまま、薄く微笑んだ。恐れ知らずの、いつもの日和の笑みだった。
「……オレだって、あんたの引き立て役なんて、まっぴらごめんですけどねぇ」
 結局言いたいことはまとまらず、苦し紛れに叩いた憎まれ口は合格だったらしい。うんうん、と日和は頷いて、ぱんと手を叩いた。
「まあ今はそれでいいね! ほらほら、わかったら妙な遠慮なんてしないで、先生でもぼくでも何でも使って早く這い上がるんだね。のろまなジュンくんを待ってあげるほどぼくは気が長くないんだからね!」
「言われなくてもそうさせてもらいますよぉ」
 お願いします、と頭を下げ、もう一度自分の立ち位置に戻る。トントンと踵でリズムを踏む。体が軽くなったような気がした。
 きっと次は、さっきよりもうまく跳べる。

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