オーダーメイド

 おいで、と言ったのにジュンくんはなかなかソファーに上がらない。床に座ったまま、ぼくに背を向けて、別に今やらなくてもいいようなこまごましたことに手を動かしている。
 言いすぎたのかもしれない。一緒に仕事をするようになってしばらく経つけれど、ジュンくんはぼくが何を言っても悔しいという顔こそすれ、落ち込んだり傷ついたりする様子は一切見せなかった。だからちょっと、加減を間違ったのかも。ぼくは紅茶のカップを傾けながら思う。
 何かを育てようと思うなら、対象をよく見る。これは動物も、植物も、人間だっておなじ。すべてに同じ方法で接しても、同じように成長するわけじゃない。ちゃんと相手を見て、ちゃんとその子だけのやり方で愛してあげるのだ。
 ぼくはいつだってそうしてきたつもりだった。ぼくに愛されるに足るとぼく自身が決めた相手のことは、いつだって。
「ねえ、聞こえてるよね?」
 それほど広くない部屋だ。ぼくの声はくっきりとよく通るし、この近さで聞こえていないわけはない。わかっている。
「いや、これだけ」
「そんなの後でいいね。ぼくが呼んでるんだから、ジュンくんは何を差し置いてもすぐにぼくのところにくるべきだね!」
「……すぐに行きますってぇ」
「今すぐだよ、ほら、おいで」
 しぶしぶといった様子で手を止めて、ジュンくんはのろのろと振り向いた。伏せた目の表情はわからない。早く、としつこく促してようやく、ぼくの足元にまで寄ってきた。サイドテーブルにカップを置いて、ぼくはソファーの座面をぽんぽんと叩く。
「ぼくはソファー、きみは床っていうのも悪くはないけどね? ほら、おいでってば」
「はあ」
 もうちょっと、そのいかにもいやいやっていう態度を取り繕えないものかね? そういうところが気に入ってはいるけれど、いい加減焦れったい。腰を上げかけたジュンくんの腕を引いて、半ば強引にソファーに座らせた。ちょっと、と不満げな声は無視をする。
 その顔を覗き込もうとしたら、あからさまにそらされた。でも、その程度で引き下がるようなぼくじゃないからね。そもそもジュンくんにぼくを拒否する権利なんてないのだ。
「ねえ、こっちを見てほしいね」
「嫌です」
「嫌じゃないんだよね。ぼくが見てって言えば素直に従うのがきみのするべきことだね」
「あのさあ、いい加減にしてくれませんかね?」
「それはこっちの台詞だね!」
 うだうだやっているのが馬鹿馬鹿しくなってきた。ジュンくんの両頬を手で挟んで、むりやりにぼくの方を向かせる。ぐえ、という声がして、しかしそうしてやっとジュンくんはぼくの顔を見た。
「ちょっと、首おかしくなるかと思ったんですけど!」
「加減してるから大丈夫だね! それより、ねえジュンくん。きみは今、なにを考えてるの? どう思ってる? ぼくに叱られて、うまくできなくて、嫌になっちゃった? それとも傷ついた? 疲れちゃってるとか? ひょっとして落ち込んでるの?」
 矢継ぎ早に尋ねる。ジュンくんは一瞬呆気に取られたような顔をして、すぐに眉間に皺を寄せた。ぼくから目を逸らそうとするのを許さず、両頬に添えた手に力を込める。ジュンくんはしばらく抵抗して、そして諦めた。
「もう、なんなんっすか、あんた」
「訊いてる通りだね! いったい、どうしてジュンくんが今泣いてるのか、理由をぼくに教えてほしいね!」
「泣いてません」
 ずっ、と洟をすすりながら、ジュンくんはぼくの質問をつっぱねた。さすがに無理があるよね? ぼくを睨む目は赤く潤んでいるし、鼻の頭も頬も薄く紅潮している。
「知りませんよ、オレだって泣きたくて泣いてるんじゃねえし。ていうか、泣いてないです」
「意外と意地っ張りだね、きみ? いや、意外とでもないかもね? それはいいことなんだけど、どうしてなのかちゃんと考えてほしいね!」
「だから知らねえって言ってるでしょうがよ!」
「わからない子だね。言葉にしないと、自分がどう思ってるのかわからないでしょう? なんでもいいから」
「おひいさんには言いたくないです」
「ぼくに言わなくて誰に言うの? 今、ジュンくんに一番近いのはぼくだよね?」
「はあ?」
 ジュンくんは心底わからないという顔で言った。その態度こそぼくにはわからない。一緒に住んで、同じものを食べて、同じ部屋で眠って、同じステージに立って、同じ歌を歌って。どう考えても、今ジュンくんと一番近い他人はぼくだ。
「あんたには絶対言わねえ」
 なのに、ジュンくんは嫌そうな顔でそんなことを言う。
「ちょっと、意味がわからないね?」
「こっちの台詞ですよぉ」
 濡れたまつげを瞬かせて、ジュンくんは俯く。ぼくみたいに長くはないけど濃いそれが、目元に影を落とす。すこし重いまぶたも今は水っぽく腫れていて、触ると熱そうだった。
「おひいさんにだけは絶対に弱音とか言いたくないし、気を使われたくないんで。だからほっといてくださいよ。あんたが構ってこなきゃ、こんなのすぐに止まるんですよ。ほんともう、余計なことばっか。オレが傷ついてるとか落ち込んでるとか関係ないんですよ。そんなことどうでもいいから、あんたはオレができてないことをバンバン指摘してればいいんですよ」
 言葉の途中で、ついにジュンくんの目から涙がぽろりとこぼれた。ぼくはそれが頬を滑り落ち、顎でしずくを作るのを見つめる。
「でもジュンくん、泣いてるよね?」
「……泣いてません。これは心の汗です」
「……心の汗?」
「はい。気持ちを調節してるだけです」
「調節……」
 なにそれ、と思ったけれど、ジュンくんは大真面目な顔だった。ぼくにしては珍しく、これは笑ってはいけないのかもしれない、という気持ちになって口元を引き締める。しかしそれは少し遅かったみたいで、次の瞬間、ジュンくんは顔を赤くして叫んだ。
「笑わないでくださいよ!」
「笑ってないね」
「笑ってんだよ! 笑うなら笑えよ!」
「笑ってないね。ジュンくん、きみ、言ってることが支離滅裂だよね?」
「わかってますよ!」
 あー!とふたたび叫んで、ジュンくんはソファーに転がった。ふふ、と思わずこぼすと、やっぱり笑ってますよね、と下からじろりと睨まれる。
「あはは、ごめんね!」
「全然悪いと思ってねえでしょ。あー、ほんと」
 耳障りの良くないスラングを吐き捨てて、ジュンくんは背を丸める。
「うん、悪いとは思ってないけど、でもまあきみの考えてることはわかったね!」
 なるほど、ぼくはまだジュンくんのことがよく理解できていなかったみたいだ。言いたくないと言いながらもほとんどを白状したようなジュンくんはうかつでかわいい。
 身を乗り出して、その頬に残った涙を親指で拭った。
「心の汗、止まったね?」
「……おかげさまでねぇ。ほんともう、おひいさんのそういうとこ、最悪ですよ」
「腫れたら困るからこれ以上擦らないでね。ほら、顔を洗ってくるといいね!」
 はいはい、と返事にならない返事をして、ジュンくんは体を起こす。
 ぼくはその背中を見送りながら、なんとなく嬉しくなっていた。
 何かを育てようと思うなら、相手をよく見る。そして、ちゃんとその子だけのやり方で愛してあげないといけない。
 どうも、思ったよりも面倒くさくて、でも愛し甲斐がありそうだった。

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