Naked

一.

 でたらめなメロディーが風に乗る。耳を澄ませてみたけれど、やっぱり、知っているどの曲でもないメロディーだ。
「なんですか、それ」
「今日は楽しかったの歌!」
 七瀬さんは振り返って、上機嫌が声になったような様子でそう答えた。思わず私は笑ってしまう。これを聴いているのが、自分と海だけなのがもったいない。
 砂を蹴りながら、七瀬さんは跳ねるように砂浜を歩いた。私は半歩ほど遅れてそれに続いている。夜の海は暗くて、どこまでが波なのかはっきりしない。
「危ないですよ、あんまり波打ち際に近寄らないで」
 七瀬さんはトラブルを起こす名人であるし、まして今はまだ熱に浮かされたようにふわふわとしている。大丈夫だよ、という返事は世界で一番信用できない。
「ほら、こっちに」
「あは、手、つないでくれる?」
「つなぎませんよ、子どもじゃあるまいし」
「なんでぇ。ケチ」
「つなぎたいんですか?」
 出来心で尋ねると、うん、と返事をされた。
「ほら、早く」
「仕方がないですね」
 きっと私も、平常心ではないのだろう。平常心であるものか、と思う。同じぐらいの大きさの手が私の手を取って、そのまま指が絡んだ。手のひらは熱を持っていて、つないだところから汗ばんできそうだった。
「終わりですか?」
「うん?」
「今日は楽しかったの歌なんでしょう」
「そう! そうだよ、終わらないよ!」
「聴かせてくださいよ」
「いいよ!」
 七瀬さんは笑って、ふたたびでたらめなメロディーを紡ぎはじめた。歌詞らしきものはさらにでたらめで、突然メンバーの名前が出たり、王様プリンが歌の中で踊ったりする。ミュージカル調になったりジャズ風になったりと忙しい。
 もう深夜に近い浜辺には誰もいなくて、昼間の熱気が嘘のように涼しい夜風が頬を撫でた。大きく腕を振りながら歩く七瀬さんに置いていかれないよう、私も少し足を速める。
 今日は楽しかった。
 一年ぶりに各地を回る、大きなツアーだった。昨年もライブはやったけれど、長期のツアーを入れなかったのは、大学受験をすると言った私への配慮だった。必要ないです、と突っぱねたものの、マネージャーは頑固で、結果としてそれはありがたかった。
 おかげで無事に希望の学部へ進学が決まり、同時にIDOLiSH7としての活動も大きく動いた。個人の仕事もそれはそれで好きだしやりがいもあるけれど、ライブをすると、やっぱりこれだ、と思う。きっと自分たちの原点はライブであるし、これからもそうだという思いを強くしたのはみな同じだっただろう。
 アウトロらしきメロディーを口ずさんで、七瀬さんは突然私の手を離し、そのままくるりとターンした。
「あぶない!」
 慌ててその手を捕まえる。七瀬さんは声を上げて笑った。
「ほら、転びますよ」
「大丈夫だってば!」
 腕時計をちらりと見る。もういい時間だ。そろそろ戻って休まなければ。
 散歩をしたいという、いつもなら却下する七瀬さんの希望を聞いてしまったのは、きっと私も別れがたかったからだろう。このままホテルに戻って眠るのは惜しい、と思ってしまった。私らしくもなく。
「三月たち、まだ飲んでるのかな」
「でしょうね。まだそれほど遅くないですし」
 ラストが地方だった関係で、全員での大規模な打ち上げは一日目の夜に済んでいた。最終日の今日はメンバーと近しいスタッフだけの気楽な食事だったから、みな、大いにリラックスして楽しんだ。飲み足りないという他のメンバーと、逢坂さんに引きずられた四葉さんはまだ二次会をしているはずだ。私と七瀬さんはふたり、先に戻ってきたというわけだった。
「楽しかったなあ」
 歩くつま先を見つめながら、胸いっぱいの何かを吐き出すように、七瀬さんは言った。ええ、と私も言う。
「フェスとかイベントには出てたけど、IDOLiSH7のツアーは久しぶりだっただろ。ここにいる人たち、来てくれた人たち、みんながオレたちのことを好きだと思ってくれてる人なんだなって思って、なあ、それってすごいことだよな」
「ええ。七瀬さんは、ファンの方たちの前で歌うのが、一番いいです」
 つい口にした、それは本心だった。
 七瀬さんの歌は、見ている人の心を動かす力がある。それと同じように、ファンから返ってくる熱量が大きければ大きいほどに、七瀬さんの歌にも熱がこもる。相乗効果だ。
「そうかな。でもオレもそう思う!」
「そうですよ」
 本当に、素晴らしかった。呟くような小さな声になってしまったけれど、七瀬さんには届いたようで、えへへと照れ笑いを返された。
「一織に褒められると、嬉しい。もちろん他の誰に褒めてもらっても嬉しいんだけど、一織は特別!」
「そうですか。それは、よかったです。私にとっても七瀬さんの歌は、特別なので」
 いつもは気恥ずかしくてなかなか言えないことが、今夜はするりと口からこぼれ出た。
 思い出されるのは、ちょうどここから本編の後半に移るというところだった。用意されていたセットリストではもっと後ろだった曲を、ここがいい、そう主張したのは七瀬さんだった。変更して正解だった、と思う。
 久しぶりの自分がセンターの曲からフォーメーションが変わって、少し下がった場所から改めて見た七瀬さんは、ただまぶしかった。
 自分は客席からこの人を見ているのではなく、同じ場所に立っているひとりだ。だから冷静でいなければ、と思うのに、ときどきそれが全部めちゃくちゃになる瞬間がある。客席から七瀬さんを見上げ、七瀬さんの声を聴き、泣き崩れている彼女らと私は、何も違わないのではないか。そう感じることさえある。
「特別、なに?」
 七瀬さんが足を止めた。
「え?」
「特別に、どう思ってる?」
 重ねて、七瀬さんが言った。私は戸惑って、同じように立ち止まる。七瀬さんのまなざしは暗い中でもまっすぐに強く、私の瞳をとらえた。
「特別に」
「うん」
「……特別に、好きです」
 何をいまさら、と思いながら言った、それは正解だったらしい。
「一織にそう言われるの、本当に、特別嬉しい」
 私を見つめ、真剣な顔のまま、七瀬さんは私の手を強く握った。海風が吹き抜けて、その髪を揺らす。どうしてですか、と私も問うべきなのかもしれない。あなたの言う、特別って、なんですか。それはどういう意味ですか。
 そう思いながらもそれ以上言葉は出ず、視線を逸らすこともできないまま、ただ七瀬さんを見つめた。
 ぱ、と七瀬さんが手を離した。私は我に返る。
「そろそろ帰ろっか!」
「あ、ええ、はい」
 さっきまでの雰囲気に比べて、その様子はあまりにもあっさりとし過ぎていた。まるで、肩透かしを食らったような気分になる。
 そのまま、ふたたび歩き出した七瀬さんを追った。アイスが食べたいな、コンビニに寄ろうかな、などと言うので、さっきも食べてたじゃないですか、と返しながら、ホテルまでのそれほどない距離をだらだらと歩いた。途中、消化不良でも起こしたような気持ちになってきて、何度か七瀬さんの顔を盗み見た。あんなことを人に言わせておいて、こんな気持ちにしておいて、いったいこの人はどういう顔をしているのか見てやろうと思ったのだ。私の思惑など知らず、七瀬さんはただただ上機嫌なだけの顔をしている。それを見ているとだんだん憎たらしくなってきて、まだアイスクリームの話をしている七瀬さんに太りますよ、と言った。
「えー、太らないよ、いっぱい動いたし」
「じゃあ虫歯になりますよ」
「ちゃんと歯磨きするから大丈夫」
「じゃあ、お腹を壊すかもしれませんね」
「壊さないって! なんなんだよ!」
 自分ばかりのようで面白くない、とは口が裂けても言いたくなかった。

 ホテルの部屋に戻りシャワーを浴びてからも、気持ちは落ち着かないままだった。時計はもう深夜を指そうとしている。何度もベッドの上で寝がえりを打って、気持ちが昂っているせいかそれでも眠くならない。しばらくして、諦めて起き上がった。兄さんたちはもう帰ってきただろうか。七瀬さんは、もう眠っただろうか。
 しばらくぼんやりとテレビを眺め、はっと気づいてラビチャを開いた。七瀬さんの部屋に持ち込んだ加湿器をチェックアウトのときに忘れずに持って出るように、と連絡をする。ベッドサイドに置く小さなものだけれど、夏でも欠かさずに持ち込んでいるにもかかわらず、七瀬さんはしょっちゅう持って出るのを忘れるからだ。とはいえ、それは半分口実みたいなもので、ただもう七瀬さんは寝てしまったのか、という確認が半分だった。
 寝てしまっているならさみしい、と思うなんてどうかしている。自分と同じ気持ちでいないと嫌だなんて。
 ほどなくして、通知音が鳴った。
『起きてるの?』
 私の送ったメッセージには全く触れず、返ってきたのはその一言だった。
『ええ、まあ』
返事はすぐに既読になる。今、隣の部屋で同じように画面を開いているのだろう。
『もう寝ちゃう?』
 送られてきた吹き出しに戸惑った。どう返そうか迷っているうち、次々にメッセージがくる。
『なんか、眠くなくて』
『一織は?』
『まだ寝ない?』
『そっち行っていい?』
 こんな気持ちのときに顔を見たら、子どもじみたことを言ってしまいそうで嫌だった。もう寝ます、と嘘を送ろうとしたとき、控えめに扉がノックされた。隣の部屋だ、その気になれば十秒もかからない。
 一織、と小さな声が続いた。廊下であれこれ言われるほうが困る。急いで開けると、部屋着に着替えた七瀬さんが、小さいビニール袋を下げて立っていた。
「どうしたんですか?」
「これ、アイス、買ったんだけど」
 掲げた中には、たしかにカップのアイスクリームが入っているようだった。私は眉を上げる。
「は? 結局買ったんです? なんでもいいですから、入るなら早く入って」
 先に立って部屋に戻る私に、お邪魔します、と言いながら、七瀬さんも後に続いた。
「どうぞ。すみません、荷物があるのでベッドですけど」
「ううん。ありがと!」
 ベッドに上がり、七瀬さんはビニール袋をごそごそと開けた。
「部屋に帰ってから、結局やっぱり食べたくって、下のコンビニで買ったんだけどさあ。でもあんまりお腹空いてないし、一織があんなこと言うし、どうしよって。とりあえず部屋の冷蔵庫に入れてたんだけど、一織が起きてるなら一緒に食べようと思って」
「はあ。いえ、でも、私はいらないですよ」
「えー! ちょっとぐらいなら食べられるだろ。半分こしよ!」
「もう歯も磨いたので」
「また磨けばいいし!」
 ほらこれ、高いやつ、と七瀬さんは言い、得意げにパッケージを見せてきた。確かにコンビニで売っている中では高級なほうのアイスクリームだ。七瀬さんはこれの限定が気になるらしく、新しいものが出るたびにいそいそと手に取ってはしばらく買うか悩み、結局半々ぐらいの割合でそのまま買ったりやっぱりケースに戻したりということをしている。
「これ、おいしいんだ」
「この間も食べてましたよね」
「そう! 売ってるうちに食べないと」
 プラスチックのスプーンに掬い取ったアイスクリームを、七瀬さんは私の唇に押し付けてきた。それ以上拒否できず、開いた口に冷たいアイスクリームが押し込まれる。冷たさの後、少し遅れて甘ったるさが口の中に広がった。
「おいしい?」
「……あなた、本当に、こういうの下手ですよね。口の大きさと奥行きを考えてくださいよ」
「おいしいだろ?」
「おいしいです」
 だろ、となぜか得意そうにして、七瀬さんもスプーンを口に運ぶ。眺めていると、ふたたび口元にアイスクリームが運ばれてきた。食べたくて見ていたわけではないのに、と思いながらも、また口を開ける。
「半分もはいらないですよ」
「そう?」
「あとはもう、七瀬さんがどうぞ」
 そう言ってもやはり度々七瀬さんは私にアイスクリームを食べさせようとして、もう面倒なので大人しくそれを食べた。
「なんか楽しい」
「なにがですか?」
「一織がオレからアイス食べてる」
 人が物を食べるのを、興味津々というように見つめるのはやめてほしい。食べづらくて閉口した。
「昔はさ、回し飲みとかも嫌なのかなって思ってたのに」
「それは……まあもう、今更でしょう」
 一緒に仕事をして、大きくない寮で生活をして、今日のようにライブで汗まみれで抱き合ったりしていれば、嫌でも慣れる。七瀬さんはもともとパーソナルスペースが狭い方だから、ふたりで仕事をすることが多い私は、特に。
 ごちそうさま、と空になったカップをゴミ箱に投げ入れて、七瀬さんはまるで自分の部屋のようにベッドに横になった。
「……寝ましょう、もう」
「うん、寝よ」
「いえ、そしたら、私が眠る場所がないじゃないですか。それにほら、ちゃんと歯を磨いて。部屋も加湿しましたか?」
「もー、一織、うるさい」
 七瀬さんは枕を抱いて、ぐるっと丸まった。まるで私のほうがおかしなことを言っているような態度だ。
「一織もこっち来て」
 うっ、と言葉を詰まらせる。横になった七瀬さんは、下からこちらを見上げるようにしている。丸い目がめいっぱいにひらいてきらきらとしていて、なんだか犬に見つめられているような気持ちになってきた。
 そうなるともう、私は七瀬さんを邪険にできない。
「……狭いですよ」
「寮のベッドより広いって」
 腕を引かれるともう駄目だった。力が抜けたように、私は七瀬さんの隣に横たわる。セミダブルのベッドはさすがにふたりで寝るには狭くて、二の腕が触れそうな近さだ。それでも距離の近さ自体には慣れているから、違和感がうまく働かない。普通の友人ならありえないような距離で七瀬さんと見つめ合うことも、触れ合うことも、今までに数えきれないほどにあったから。
「なんか、話そうよ」
 いつもより小さく、囁くような声で、七瀬さんは言った。
「なんかって、なんでしょう」
「なんでもいいけど」
 私には一番苦手な話題だった。取り合わなくてもいいと思いながらも困ったような気分でいると、七瀬さんはさらに声をひそめた。それを聞きとろうと、自然と顔を近づける。
 比喩ではなく、呼吸を感じそうなぐらいに近い。髪の毛が流れて、七瀬さんの形の良い額があらわになっている。前髪の生え際をまじまじと見つめていると、聞いてる? と言われてしまった。
「聞いてますよ」
「ほんとに?」
「本当です。どうしたんですか?」
 なにか、言いたいことがあるんだろう。促すと、大事な秘密でも打ち明けるかのようにもったいぶって、七瀬さんは口を開く。
「アイス食べたかったのも本当だけど、なんか、どうしてももうちょっと一織といたかったんだよね」
「……そうなんですか?」
「うん。だってさ、さみしくない? あんな夢みたいな後で、ひとりでなんて、眠れないよ」
 一織は? と、七瀬さんは続けた。私は少し迷って、それでも七瀬さんがこっちをじっと見ているので、取り繕うことができなくなってしまう。
 七瀬さんの瞳のせいかもしれない。この人の、赤く燃えるような瞳で見つめられると、私はもう何も嘘がつけない。普段は隠しているつもりの自分が、大きな声で勝手に叫びだす。
「……私も、ずっと、同じ気持ちでした。眠れなくて、七瀬さんが起きていたら、と思って」
 今のこの、別れがたいようなさみしいような名残惜しさを同じように共有しているのだと思うと、七瀬さんの言葉を借りるなら、それも夢みたいなことのひとつだ。
 まったく違う人間なのに、同じ場所に立って、同じ気持ちを感じていることが不思議だった。七瀬さんと出会ってから、それまで頑なに信じていた理論を、超越した感覚に何度も覆される。それが不思議で、信じられなくて、紐解きたい。
 もっと近づけば、わかるのだろうか。
 ぼうっと見つめ返しているうちに、妙に七瀬さんの顔が近くなる。あれ、と思っていると、頬がぶつかった。六弥さんがよくしている仕草だ。七瀬さんの頬はすべすべで、ちゃんと手入れをしたあとなんだな、と場違いに思った。
「どうしよう。オレ今、おまえのこと、すっごくかわいい」
「は?」
 それは七瀬さんの方ではないのか、と思う間もなく、今度は唇があたった。頬にキスをされているのだと気づくのに、しばらくかかった。ぼんやりしている間に唇はちゅっと音を立てながら何度も離れたりくっついたりして、最後に口と口がくっついた。
「んー」
「えっ、ン、な、なせ、さん」
 言葉が途切れるのは、唇が触れ合っている間はうまく話せないからだ。突然の盛り上がりに戸惑いながら、なんだかおかしい、と思うのに、抵抗するのが憚られる。そのままにさせていると、伺いを立てるように、七瀬さんは顔を覗き込んできた。
「いや?」
「いやというか」
 いやではないのだ。実際。
「いやというか?」
「いやというか……おかしくないですか?」
「おかしくないよ!」
 断言されると、そうか、という気がしてくる。いやではないのだ。実際。困ったことに。いやじゃないならいいよね、と言いこそしないけれど、そう思っているだろう振る舞いもとくにいやではない。
 半ば圧し掛かられながら、キスを続けた。舌が唇を舐めたときはさすがに驚いたけれど、続けているうち、勝手に息が上がってくる。七瀬さんの体の一部が自分の体の中に入り込んでくるのが変な気分で、それでも興奮していた。
 つくりとしては同じだ。七瀬さんの胸から空気が押し出されて、それは声帯を震わせ、声になり、唇はメロディーを紡ぐ。自分だって、他の誰だって持っている機能なのに、どうして七瀬さんだけは特別なのだろう。私の抵抗を奪っている理由はきっとただそれだけだし、こんなふうに心臓が速くなる理由だって、それだけにちがいなかった。
 なみなみと注がれた水が器からあふれるように、突然たまらない気持ちになった。もっと、もっと近くにいきたい。そう思って、胴に手を回した。七瀬さんは驚いたように一瞬体を跳ねさせて、それから同じようにぎゅうぎゅうとこちらを抱きしめてきた。ごろごろともつれ合っているうちに、体の間に布があることが煩わしくなる。その気持ちが通じたのか、七瀬さんは勢いよく体を起こし、あっという間にTシャツを脱ぎ捨てた。
「なんか、もう、だめかも。一織も脱いで」
「ちょっと、あんまりバタバタしないでくださいよ。埃が」
「いいから!」
 考えたわけではなく半ば条件反射のように出た言葉は、脱がされた部屋着と一緒に勢いよく跳ね飛ばされた。無理やりすぎて、破れていないか心配になる。
「なんかもう、くっつきたい」
 真っ赤な顔をして、七瀬さんは言った。下着だけになった体がまた抱きついてくる。少しだけ上達した舌が絡まり合う。口の中に後から後から唾液が湧いて、唇の端からこぼれそうになった。歯の合わせを割って入り込んできた舌が上顎をくすぐって、変な声が漏れた。肌と肌が合わさっているところが、汗ばんでくる。
「これは?」
 息継ぎの合間、単純に疑問が湧いて、七瀬さんのボクサーパンツのウエストを引っ張った。わ、と声が上がる。
「そういうこと言う?」
「それは、まあ、私も男なので」
 自分の体の反応ぐらいわかっていた。少し心配になって、ゴムをくぐり、七瀬さんの下着の中に手を忍ばせた。毛の感触の少し下の性器は硬くなっていて、そのことに安心する。自分だけがこんなになっているんだったらさすがに恥ずかしい。待って待って、と七瀬さんは言って、最後の一枚を蹴り脱いだ。
「そういう顔、しないで」
「どういうのですか?」
 七瀬さんの手が私の下着にかかる。腰を上げて、それを取り払うのを手伝った。
「ほっとしてるみたいな。……オレが勃ってるの、やじゃない?」
「いやじゃないですよ」
 不思議と、当たり前のように受け入れてしまっている。触ってもいいんですか、と尋ねると、先に七瀬さんが私のものを握った。輪にした指で扱かれ、指先で先端を撫でられると思わず声が漏れる。
「んっ、ん」
「気持ちいい? なあ、オレのも、触って」
 促されて、下からそっと触ってみる。裏側を撫でて、張り出しているところの段差を擦ると、あ、と七瀬さんは喘いだ。同じようにされて、私も声を噛み殺す。
「ねえ、なんか、すぐいっちゃいそう……」
「ん、はい」
「ね、一織、チューしたい。チューして」
 していることにそぐわない子どもっぽいねだり方に笑いそうになったけれど、唇を合わせると急に射精感が込み上げてきた。まだもう少しいきたくなくて、力を入れて堪える。
「すごい、どろどろ。すごい濡れるね」
「あ、言わないで、いいです」
 ぬちゃぬちゃという濡れた音が、脚の間と手元でひっきりなしに聞こえる。
「なんで? いいじゃん、気持ちいいんだろ?」
「だから、言わないで、あっ、いいですって!」
「はあ、あー、一織、かわいい。好き」
 七瀬さんがうっとりとそう言った瞬間、腰のあたりからしびれるような快感が上ってきて、気がついたときには出してしまっていた。
「は、あっ、あ……」
 太ももが震える。気持ちが良かった。最後まで絞るように扱かれて、もうやめてほしくて腰を捩った。一気に脱力感が押し寄せてくる。七瀬さんはまだだとわかっていたけれど、手がおろそかになってしまう。
「一織、ね、ちゃんとやって」
そんな様子に焦れたのか、七瀬さんは私の手の上から握って、自分で動かし始めた。起き上がるのもおっくうで、顔だけを動かして七瀬さんを見る。呼吸を弾ませて、ぎらぎらした目で、七瀬さんは私を見ていた。また、ぞくぞくとしたものが背中を走る。
「んっ、はあ、ねえ、いきそう。一織、見てて」
 七瀬さんが体を震わせる。手の中のものがひときわ膨らんだかと思うと跳ねて、白いものがびゅっと飛び出した。それは私の臍のあたりにかかる。そこに更に擦りつけるようにして、七瀬さんは最後まで出し切った。熱いそれが自分の腹の上でぴくぴくとして、それにもまた興奮した。
「……気持ちよかったあ」
「それは……よかったです」
 臍に溜まった精液がさらにシーツに垂れ落ちそうで、私は慌てて上を向いた。
「七瀬さん、ティッシュを」
「うん」
 生返事をよこしたものの、七瀬さんはまったく動こうとしない。ちょっと、と重ねて言うとそれも無視される。
 仕方がなく起き上がろうとしたとき、七瀬さんがその臍へ指を突っ込んできた。思わず、ひ、と素っ頓狂な声を上げる。
「なんですか!」
 ぬるぬると腹に塗り拡げられて、臍の奥からぞわぞわとした感覚が這いのぼった。
「やらしい。なんでまたちょっと勃ってるの?」
「見ないでくださいよ! もういいですから!」
 七瀬さんの指が、半分ぐらい勃起しているものをちょんちょんとつついた。やめてほしい。逃げようとして、このまま動くと盛大にシーツを汚してしまう、と思い当たる。固まった私をどう勘違いしたのか、自分と私の精液で汚れた手で、ふたたび性器を撫でた。倒錯的すぎてめまいがする。
「さっき、いやじゃないって言ったよね」
「あ、なに、なんですか」
「もうちょっとしていい?」
 いいともいやだとも言う前に、七瀬さんの指が脚の間、もっと奥に這わされる。
「は? なに、えっ」
 言えないようなところにぬるりとした感触がして、触られているのだと思うと頭が弾け飛びそうになった。
「お願い」
「いや、無理でしょう……」
 思わず真顔になる。極めて妥当な見解を述べたつもりだったけれど、どうも七瀬さんはそう思わなかったようで、前への刺激を再開された。気持ち悪いのと気持ちがいいのがまざって、なにがなんだかよくわからなくなる。
「ちょっと、ちょっとだけ。ね、お願い」
「あっ、ほんと、あなた、そういうとこありますよね!」
 そうやって、下手に出るふりをしながら、結局全部自分のいいようにしてしまうのだ。何を言ってもどうにもならないことを悟って、私は諦めた。どうしたって、今の私にはこの人を蹴り飛ばして逃げることはできない。
「もうどうにでもしてください……」
 体の力を抜くと、ありがとう! と叫んで、七瀬さんは熱烈なキスをよこした。

 さすがにそれだけでは無理だ、と言って、みずからの化粧品を慣らすために差し出すのは結構な勇気を要した。脚の間をべたべたにしながら拡げられている間に何度も訳が分からなくなって、一度は達したと思う。いい、と問われぼんやりしたまま頷くと、七瀬さんに向かって思い切り脚を開くという信じられないような体勢を取らされた。
「無理です。心理的に」
「でもこうじゃなきゃできなくない?」
「無理です」
 思わず脚を閉じて抵抗すると、もうオレもほんと無理、と情けない顔で七瀬さんは言った。
「お願い、オレしか見てないじゃん」
「それが問題なんですよ!」
「もう今更じゃない? ねーお願い、ほんともう、出ちゃいそう」
「いいじゃないですか、それで終わりにしましょうよ」
「わかるだろ、男ならさあ!」
 お願い、好き、かわいい、そう言われながら懇願されるのに自分がこんなに弱いとは思ってもいなかった。
「もう入りたい、一織に。ね、オレに入られたくない? いや?」
「いや、とは、言ってないです」
 つい語尾が弱くなる。じれったくなったのか、七瀬さんはもう我慢できないとばかりに、私の膝を掴んで開かせた。
「もう無理。お願い、入らせて」
 先端があてがわれる。体が強張りかけて、そこですかさず頬にキスをされた。
「大丈夫、さっき気持ちよさそうだったし。痛かったらやめる」
 馬鹿になってしまった頭と体にさっきまでの性感が呼び起こされ、腹の奥がざわめいた。
「ほんとですか」
「やめる、ように、努力する」
「それ、一番信用できないんですけど……」
 埋まっていた指が引き抜かれた後で妙にすうすうしているような下半身を、諦めて脱力させる。流されている。それはわかっているのに、どうにもできない。もっと救えないのは、それをさほど悪いとも思っていないことだった。本当に私は馬鹿になってしまったのかもしれない。この人のせいで。
「痛かったら言って」
 力を抜いたのに合わせるように、ぐっと七瀬さんが入り込んできた。痛くはない、でも圧迫感がある。あ、と勝手に押し出される声が止められない。
「痛くない? ね、大丈夫?」
「あ、いいです、いいから」
 じりじりとされるほうがきつくて、七瀬さんの腰の後ろに脚を引っ掛ける。一番太いところが通ると、あとは惰性のように飲み込んだ。一織、と名前を呼ばれて、頭がぐらぐらとした。勝手に体の中が締まって、う、と七瀬さんが耳元で熱い息をこぼす。
「もう、すぐ、いっちゃうかも……」
 悪くないのだということに安心した。したこともされたこともないから、想像もできない。
「いいですよ、その、好きなときに」
「すぐでも馬鹿にしない?」
 何を心配しているのだろうと思う。めいっぱいに拡がっているだろうそこは、痛みこそそんなにないけれど、埋まっている苦しさのようなものが強い。
 しませんよ、と言い終わる前に腰が引かれた。揺さぶられながら、体の中を擦られるのはこんなにも妙な感覚なのかと思う。かたい肉が腹の中を行き来して、深いところを突かれると破れそうで恐ろしい。どこか俯瞰でそんなことを思う自分と、必死で七瀬さんにしがみついている自分がどんどん乖離してゆく。
 不意に前を握られて、ひっと声が出た。
「ごめん、萎えてる」
「っい、いいです、触らなくて」
 自分のもののような遠慮のなさで触れられ、声が裏返った。勝手に足が跳ね上がり宙を蹴る。動きながら扱かれて、すぐにわけがわからなくなった。気持ちがいいのか苦しいのか嫌なのか嬉しいのか、それともその全部か。一織、と名前を呼ばれるたび、七瀬さんとの肌の境目がぐちゃぐちゃに溶けてゆくような錯覚をおぼえる。息がしにくいぐらいにのしかかられて、七瀬さんの皮膚の熱さを感じながら、それもいいのかもしれない、と思った。

back