Naked

二.

 んん、と声が漏れた。まぶしい。閉じている目のさき、光があたっていることだけがわかる。
 眠りのふちから無理矢理に引き上げられたようで、オレはぐるっと寝返りを打ち、そして目を開けた。まぶしくて涙が出る。
 上半身だけを起こした一織が、カーテンの合わせをわずかに引き、外を見ていた。腰から下のあたりはシーツが覆っていたけれど、裸の肩や背中は白く浮かび上がっている。そしておそらく、下も何も身につけていないままだ。
 一織、と無意識のうちに名前を呼んでいた。緩慢な動作で、一織はオレのほうを振り返った。
「すみません、起こしましたね」
 わずかに声が掠れている。
「ううん。今、何時?」
「さあ……五時ぐらいじゃないですか」
 一織らしくない、投げやりにも聞こえる言い方だ。怒ってるのかな、と一瞬心配になる。窓の方に向き直り、一織はカーテンを閉めた。厚い生地のそれはきっちり遮光の役目をはたして、室内はふたたび暗くなる。
「まだ眠っていていいですよ」
 起こしていた体を投げ出し、大きくふかふかの枕に左の頬をつけて、一織はこっちを見た。腕が曲げられているせいで肩甲骨がくっきりと浮きあがっているのが、まだくらんだ目にもわかった。うん、と言いながら、それを眺める。一織は痩せすぎているわけではないけれど、直線的で、肉よりも骨がよくわかる。体の線をたどって、ゆっくりと見つめ返した。いつも涼しい目元はまだぼんやりしていて、怒っているわけではないことを知る。
 しばらくそうして見つめ合っているうち、目が慣れてきた。
「何を考えていますか?」
 相変わらず少しがさがさした声で、一織が言った。
「……声、大丈夫?」
「ええ。私もさっき、起きたばかりなので」
 そういえば、寝る前にミネラルウォーターを開けたはずだった。記憶の通り、それはサイドテーブルの上に無造作に転がされている。ふたを開けて手渡すと、一織は控えめに一口を含み、そのままこっちへ返した。なんだか急に喉が渇いた気がして、一息に半分ほどまでそれを空ける。おいしい。
「一気に飲んじゃ、だめですよ」
「大丈夫。常温だし」
 身動きをしたせいでシーツが引っ張られて、裸の腰骨のあたりが見えそうだ。
「さむくない?」
「ええ。暑いぐらいですよ」
「エアコン、強くする?」
「いえ。七瀬さん、冷えると、よくないでしょう」
 短い文節でぷつぷつと切れる、いつもよりも少し掠れていて、低くて、小さい声を甘いと思うのは、オレの勘違いではないはずだった。声に熱があるのだとすれば、これまで知っていたのは肌の表面のつめたさで、今のものはもっと体の中心に近い、どろどろと熱いもののように思う。
「集合、何時だっけ」
「十一時です。チェックアウトもその時間にしてくれているそうなので、ゆっくりで大丈夫です」
「みんな、ごはんどうするんだろう」
「さあ……まあ、遅かった人たちは、きっとぎりぎりまで寝ているんでしょうね。移動中に何か食べられると思いますよ」
「そっか」
「お腹、空きましたか?」
「うーん、ちょっと」
「あとで、ルームサービスを頼みますか」
「うーん、それはちょっと」
 まさか、この部屋に他の誰かを入れるなんて。
 意味があるようでさほどない会話は、何を考えているのかという一織の質問の答えにはなっていない。それを問うほどには、まだ一織の頭もしっかりしていないみたいだ。
「じゃあ、早めに支度をして、ラウンジに行きましょう」
「うん」
 薄い尻の曲線からシーツが滑り落ちそうで、そればかりが気になった。すっかりくしゃくしゃになってしまっているシーツをたぐり寄せ、背中のあたりまで掛け直す。手が肌に触れた拍子に、一織はぴくりと体を震わせた。
「ごめん、くすぐったかった?」
「……すこし」
 そのまま背骨を下から辿ると、一織は体を捩って壁際に逃げ、オレの方に向き直った。
「くすぐったいです、って」
「くすぐったがりだよな、ほんと」
 その仕草に昨晩のことを思い出してしまう。向かい合ったまま、さらに腰のあたりに触れると、一織はオレの手を掴んだ。やめさせようとするには弱い抵抗に、いいのかな、と都合よく解釈をする。
 シーツの下で腰を撫で、脇腹をなぞると、簡単に一織の呼吸は乱れた。
「っふ、あ、だめです」
 くすぐったがるにしても、笑いだすのではなく、ひたすら声を震わせて耐えるのだから良くない。
「なんか、悪いことしてるみたい」
「え?」
 今度は明確に意思を持って、肌に触れた。逃げるにしても、一織の後ろはすぐ壁だ。こっちの隣は誰の部屋だっけ、と一瞬考えて、本当なら自分の部屋だったことをすぐに思い出した。少し安心する。他の誰かがいる部屋なら、あんまりがたがたするのは気がひける。
 一織は声を殺そうと、きつく唇を噛みしめている。
「だから、悪いこと、してるみたいなんだけど」
「ふぅ、ン、んっ」
 声出しても大丈夫だよ、と言っても、一織は首を横に振った。黒髪が目元にかかる。普段は清潔さしか感じないけれど、汗のせいかところどころ束になったそれが目元を隠すのは、妙に色気があった。そんなふうに思うのは、オレのほうがおかしくなってしまったせいかもしれない。
 白くてしっとりとした皮膚を撫で、時々ひっかいたりくすぐったりする。一織はそのどれもに面白いぐらいに反応し、体を捩ったり跳ねさせたりした。いつもぴんとしていて替えたてのシーツみたいな清潔な一織が、オレが触るたび、ぐにゃぐにゃと形をなくしてゆく。それが不思議で、でも悪くはなかった。
「ねえ」
 目を伏せてしまった一織にこっちを見てほしくて、自分で思っているよりもずっと甘ったるい声が出た。一織はオレのこういう声が好きだ。多分。それでも恥ずかしさのほうが勝るのか、一織はじいっと別のところを見ている。じれったくなって、顔を上げさせるように額に唇をつけた。二度三度と、まるで子どもにしているようにちゅっと音を立ててキスをする。瞬きを近くで感じて、きっとうるんでいるだろう目尻にも唇を落とした。こっち見て、と言う代わりに。
「なんですか」
 そのうちに根負けしたように、一織が言った。
「ねえ、他の誰かが、一織に、こうやって触ったことある?」
 他の誰かが、一織をこんなふうにぐにゃぐにゃにしたことがあったらいやだな、と思った。オレだけだったらいいのに。
「あ」
「あ?」
 ある、と続くのかと思って、オレは驚く。
「あるの!?」
「あ、るわけないでしょう、そんなの……」
「そうなの?」
「そうです!」
 一織はおそらく顔を赤くして、オレの手を叩き落とした。痛い。それでも嬉しくなって、懲りずにまた手を出す。触れるのにしたがって、一織の緊張が強くなったり緩んだりするのを肌を通して感じる。脚に脚をひっかけて、片手を後ろの壁についた。壁との間に閉じ込められた一織は、縮こまっているせいか妙に小さく感じる。
 乳首のあたりを指でかすめると、一織の声がひっくり返った。同時にごん、と大きな音が聞こえ、オレは慌てて体を離した。
「~~~っ、痛……」
「えっ、だ、大丈夫!? すごい音した!」
 逃げようとして仰け反ったせいだろう。一織は頭を抱えて丸まった。オレも一織の後頭部をさする。音は派手だったけれど、どうにかなってはいないみたいだ。
「わー、ごめん、痛かったな。大丈夫?」
「……目が覚めました」
「え、覚めてなかったの?」
 言葉の通り、痛みのせいか涙目ではあるけれど、一織の目元はいつもの通りにぴしりとしていた。それでも頭を撫でていたら、もういいです、と手を外された。
「狭いんですけど……もうちょっと、そっち行ってください」
「えー」
 格好がつかないことこの上ない。仕方なく、ごそごそと壁際から離れる。目が覚めちゃったのかあ、と思った。
 昨夜、なんでこんなことになったのか、オレも本当のところはよくわかっていない。正気かそうじゃなかったかと言われれば、きっと正気ではなかった。オレも一織も。
すごく楽しかったライブの後はいつだって多少はそういうところがあるにせよ、昨日は特にそうだった。楽しくて、終わるのがさみしくて、その続きのように食事でもはしゃいで、他のみんなともそうだったけど、特に一織とは離れがたくて。
 一織はときどき、びっくりするぐらいにわかりやすい。何度も目が合って、いつもは大丈夫かと確かめるような顔をすることもあるのに、昨日は全然違っていた。強いライトには慣れているはずなのに、まるで太陽を見るみたいに目を細め、一織はオレを見ていた。それがどういう気持ちかなんてもうとっくに知っているし、言われたことだってあるのに、どうしてもこの夜のうちにもう一度聞きたくて仕方がなかった。
 誰かに特別に思われるって、どうしてこんなに嬉しいんだろうと思う。まして、一織みたいなやつにこんなふうに思われて、好きにならない人間なんて、きっといない。
 でも、今こうしている半分ぐらいは昨日の雰囲気につけこんだところがあったから、一織が目が覚めたというのならそれは仕方がなかった。そういうつもりじゃなかったと言われれば、それまでだ。
 そう思って引っ込めかけた手に、一織の指が絡んだ。オレはちょっと驚いて、一織を見る。
「どうしたんですか」
 その顔は確かに寝起きよりもしっかりしていた。けれどつながれた手は熱く、頬は上気している。切れ長の目の奥にも、昨日初めて見た火がゆらゆらと揺れていて、それを近くで見て、かっと顔が熱くなった。
 一織は普段はあんな態度だけれど、心を許した相手とは距離が近い。おうちで愛されて育ったんだろうな、と思う。本当は触れることも触れられることも好きなのだろうけれど、なぜかそれを自制しているところがあって、今までもそういうところは少しかわいいなと思っていた。
 七瀬さん、とわずかに不安そうに一織が言った。うん、と答える自分の声が、どこか遠く聞こえる。一織の硬い体に、柔らかくなった桃のような性欲が宿っていることが不思議だ。そしてそれが、今このオレに向かっていることも。一織らしいまっすぐな肉体も、今なら掴んだらどこまでも指が沈みそうだと思う。
 頭に血が上りそうなのを必死にこらえて、昨日触った場所をふたたびまさぐった。一織が声を上げるたび、なんでとか、どういうつもりだったのかとか、そういうことがどうでもよくなった。一織はいろいろ言うし、オレはそれがわかったりわからなかったりするけれど、結局はオレのことがすごく好きなのだ。それを、一織が納得できる言葉で難しく言っているだけだ。
 昨晩よりもスムーズに入り込んだ体の中は情で潤んでいて、熱くて、すごく気持ちがよかった、オレの体の下で、一織はぎゅっと目を閉じて、耳まで赤くなっている。二の腕のあたりを掴む指先に一瞬力が入っては、すぐに緩む。そんな理性、さっさと投げ捨ててしまえばいいのに。
「一織」
 熱くなった耳のふちに唇をくっつけて、名前を呼んだ。ひ、と引きつった声を上げて、一織が体をすくめる。同時に入れたところがきつくなって、オレは情けなく喘ぐ。
「一織、ちょっと、ゆるくして」
「できな、あっ、そこで、話さないで」
 一織の声も同じように近い。いつもより高くて吐息をたっぷりと含んでいるようなそれは、甘ったるくて喉が渇く。
 上半身をくっつけているせいで、一織の腰は持ち上がっていて、すこし体勢がきつそうだ。枕か何かを入れてやればいいんだろうけれど、そのわずかな間離れるのさえ惜しく思えて、オレはそのまま腰を揺すった。
「はー、ねえ、気持ちいい。大丈夫? 苦しくない?」
 肩のあたりで一織が頷いたのがわかった。あたりをつけて中を押し上げると、その体がびくっと跳ねる。昨日の終わりぐらいには一織もちょっとは気持ちがよかったみたいだったから、できるなら自分だけじゃなくて一織も気持ちよくなってほしい。
 ああ、と泣いてるみたいな声が上がった。
「あっ、ななせ、さんっ、だめ、そこっ……」
「え、ん、ここ? 痛い?」
「ちがうっ、やあっ」
 心配になって体を起こす。ふやけ切った顔の一織は、いやいやをするように首を横に振った。その拍子に、こめかみから汗が流れる。そっと腰を動かすのに合わせて、一織の腰も揺れている。
「気持ちいい?」
 真っ赤な顔で、一織は頷く。眉が下がって、目は半分閉じていて、まるで見てはいけない姿を見ているような気持ちになった。
「はあ、あっ、ねえ、ちゃんと、七瀬さん」
「うん」
 焦らすような余裕はオレにもなかった。
 そのまま、好きなように動いても、一織はずっと気持ちよさそうにしていた。きれいな体がぐっと緊張して、しばらくの後、くたんと脱力する。それに合わせて、オレも達した。

 反省しています、と大真面目な顔で一織は言った。
「なにを?」
 今の状況にまったくそぐわなくて、オレはきっと鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてしまった。それは、今、言うことか。
 一織がシャワーに行っている間に、オレは昨晩どこかに放り投げてしまった一織のパンツを探していた。それがさっきやっと見つかったところで、だから、オレは一織の懺悔をパンツをぶら下げたまま聞いている。
「なんで流されてしまったのかと……あと、後始末が頭になかったことを……」
「いやー、お掃除の人も仕事だし、気にしないよ、別に。あとパンツあったよ」
「気にするでしょう!」
「そんなに汚れてないって」
「あるべきではない汚れがある時点でもう駄目です!」 
 もうどうしようもないじゃんか、と言うと、一織はうなだれたままもそもそとパンツを履いた。
「いやじゃないって言ったのに」
「だから反省してるんじゃないですか。いいから、あなたも早くシャワーを浴びてください」
「そうなの?」
「いやだったらしてません」
 つまり、いやじゃなかったってことだよな。オレは単純にも、それだけで嬉しくなってしまった。
「じゃあ別に、反省することじゃなくない?」
「そういうわけにもいかないんですよ。七瀬さんにはわからないかもしれないですけど」
「ふうん」
 難しく考えるのをやめればいいのに。そう思うけれど、きっとこれはもう一織の性分だから仕方がない。考えて考えて、また何か一織なりに納得するような理由やあれこれをくっつけるのだろう。
 好きだって早く言えばいいのにな、と思う。歌っていないオレはオレじゃないし、歌い続けている限り、オレは一織の好きな七瀬陸だ。一織の賢い頭が早くそこに辿り着いてしまえばいいのに。
 のろのろとTシャツから頭を出した一織を捕まえて、ちゅっと唇をつけた。頬にも、同じ唇にも。
「……早く、シャワーしてきてくださいってば」
「うん。着替えたら、ご飯食べに行こうね」
「あなたはその前に自分の部屋を片付けてきてくださいね」
 いちいち釘を刺すような言い方も、今日はかわいげがあるように思える。結局オレたちはふたりとも、今も、もしかしたらずっと、正気ではないままだ。
 ニヤニヤしないで、と怒られながら、オレはもう一度一織にキスをした。

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