窓の外はもう燃えるような夜明け

一.


 鯨幕というけれど、これを見て鯨を連想した人間は想像力が豊かだと思う。少なくとも一織には、これはただの白黒の幕であるとしか思えない。
 紡が慌てて用意してくれた夏用の喪服は薄手で、エアコンのよく効いた式場の中では寒いぐらいだった。今年成人したときに両親から贈られた礼服はオールシーズン用なので、この盛夏に着るには暑いだろうとの配慮だ。隣に立つ大和は、自前で夏用を持っていたらしい。
 開いた扉から、外の熱気が吹き込んでくる。温度差に体調を崩しそうだと思った。
「暑ぃな」
 大和が小さくつぶやいた。そうですね、と返事をし、一織は出棺を待った。参列者がきちんとおさまっていた式場の中では感じなかったが、こうして皆が思い思いに立ち並んでいると、こんなにも多くの人間が集まっていたのだということに驚く。
 今日の告別式とは別に後日お別れの会があると言っていたから、そこにはより多くの人間が参列することだろう。
「二階堂さん、一織さん」
 後ろから声をかけられ、一織と大和は揃って振り返る。
立っていたのは、初山美津子のマネージャーだった。
 年の頃は音晴とそれほど変わらないだろう彼は、さすがに疲労した様子で頭を下げた。一織と大和もそれに続く。
「この度は、何と言ったらいいか……驚きました。心から、お悔やみ申し上げます」
 大和は途中で言い淀み、目を伏せた。
「こちらこそ、ご挨拶する時間がなくて。遅くなって申し訳ありません。初山もお二人に会えて、喜んでいると思います。病室でも皆さんのこと、応援していましたから」
「ありがとうございます。……本当は、七瀬も来たがっていたんですが。私と七瀬は、本当に初山さんには良くしていただきましたから」
「いえ。存じています。皆さんも大変な時ですのに、お気になさらないでください」
 お力を落とされませんように、と大和が続ける。彼はもう一度頭を下げると、また人の中に紛れていった。仕事の直接の関係者だけでも大変な数だろう、と思う。
 初山美津子の訃報を知ったのは、一昨日の夜だ。
 嘘でしょう、と紡に言った声が震えたことが、今も鮮明に思い出される。このところ、テレビドラマにも映画にも出演の話を聞かないな、と思っていた矢先だった。
 彼女と共演したのは、一昨年前の夏のドラマのことだ。
 週末の夜の二十二時台に陸と自分のダブル主演、しかも主題歌はアイドリッシュセブンで、という話に一も二もなく一織はうなずいた。
 二十歳前後の若者たちが、あることをきっかけにシェアハウスで一夏を過ごすという群像劇もので、美津子はそのシェアハウスの管理人、一織は美津子の孫という設定だった。自分も陸もドラマの経験はあれどもまだまだ若手というポジションだったから、脇にはしっかりとした大ベテランの女優を据えたというところだろう、と一織は思った。
「美津子さんは怖ぇぞー。さすが大女優って感じだし」
 先に共演経験のあった大和はそう茶化し、それを半ば真に受けていた一織と陸は緊張して顔合わせに臨んだ。
「あなたが私の孫? よろしくね!」
 けれど、そんな緊張をよそに、開口一番に美津子は一織にそう言い、ぎゅうと一織の手を握った。目を白黒させていると、隣で陸が弾かれたように笑いだした。
「一織、変な顔! そんな顔、久しぶりに見た!」
「七瀬さん!」
「あ、こっちが私の孫の友達ね?」
「はい、お孫さんの友達の七瀬陸です! はじめまして!」
「あなた、自分と役とが混ざってますよ!」
「あはは、よかった。私の孫と孫の友達がいい子で!」
 一織と陸の会話に、美津子も声を上げて笑った。
 もう還暦を迎えてしばらく経つというのに、まったくそうは見えないほど彼女は若々しく、いるだけで現場を明るくする人柄に撮影中は何度も助けられた。なぜか美津子も自分たちを気に入ってくれたようで、クランクアップの後も何かと気にかけてくれ、交流は続いた。招待したライブの関係者席ではしゃいでいた美津子にふたりで手を振ったのも、それほど前のことではない。
「冬ぐらいから体調が悪かったんだと。ただまあ、美津子さんって、ああいう人だろ。仕事を優先してて、きちんと調べて診断がついたころには、もう手の施しようがなかったらしい」
 先に紡から聞いていたらしい大和が、低い声で一織に言った。そうですか、としか返事ができなかった。
「告別式は明後日だそうです。お二人のスケジュールの都合はつけました。申し訳ないんですが、私はどうしても参列できなくて」
「いえ、私と二階堂さんで大丈夫です。あなたは七瀬さんの病院の方へ付いてください」
 はい、と紡がうなずく。
「七瀬さんも行くというでしょうが……」
「それは、私からきちんとお話しします。陸さんには、今は自分の体調を優先していただかないと」
「お願いします」
 抜け出さないように見張っててくださいね、と続けると、紡は硬かった表情をわずかに和らげた。
「あの人ならやりかねないです」
「そうですね。初山さんと陸さん、本当のお孫さんみたいに仲が良かったですから」
「……そうですね。本当に」
 ふたりの様子が思い出される。
 大和と紡の会話は事務的なものに移っている。右から左へ流れるそれが、まったく頭に入らない。しばらく、一織は必死で床を踏みしめていた。


 事務所からの帰りの車の中でも、一体何をどう話せばいいのかわからず、一織は押し黙っていた。思い出など話し始めてしまえば、何かの取り返しがつかなくなるような気がしていた。
 よほど思い詰めた顔をしていたのだろう。運転席の大和が、ちらっと一織を見た。
「イチ、お前は大丈夫か?」
「……正直なところ、ショックです。まさか、そんなに体調がお悪いなんて、思ってもなくて」
「だよなぁ。俺もショックだわ」
「私、誰かの葬儀に参列するの、初めてです」
 マジか、と大和は目をみはった。
「そっか、でもそうだよなぁ。イチ、まだ若いもんな」
「ええ。身内も健在なので」
「マネージャーに必要なもん用意してもらうように言っとくわ。お前さんなら心配ないだろうけど」
「ありがとうございます」
 頷いて、気を落とすなよ、と大和は言った。おそらく、努めて軽くといったような口調だった。それに、なんとか笑みらしきものを作る。
 不思議だった。この間、陸と美津子のラビチャのやりとりを見せられたばかりだ。あれはいつのことだっただろうか。どんな内容だっただろうか。そんなに前ではなかったはずなのに、動揺しているせいか思い出せない。
 寮に戻ってからも、なかなか気持ちを切り替えることができず、習慣のようにSNSのアプリを開いた。そこにも美津子の訃報を知らせる内容を見つける。しばらくためらい、その記事をタップした。そこにも、病名ははっきりとは記されていなかった。
 美津子と最後に顔を合わせたのはいつだったか。
 確か、調子が悪くなったという冬になる少し前、冷え込むようになってきたころだった。局の廊下で顔を合わせただけだったが、新曲買ったからね、と話しかけられた。陸とふたりでの仕事だったのに、間が悪く自分しかいなかったのだ。七瀬さんにも伝えておきます、きっと喜びますから、と返事をしたはずだった。それを聞いて、美津子はどういう顔をしたのだったか。
 突然、足元がぐらつくような感覚に襲われた。スマートフォンを手放し、倒れ込むようになんとかソファーに横になる。喉元から何かがせり上がってくるような気がした。気分が悪い、吐くかも、と青ざめる。なにか袋を、と探しかけて、けれど前触れなく漏れたのは嗚咽だった。
 まぶたが熱い。自分と相手はもう同じ世界にはいなくて、もう二度と会えなくて、顔を見ることも声を聞くこともできなくなってしまった。それが、こんなにも衝撃的なことだと、一織は初めて知った。
 しばらくすると涙は止まったけれど、ソファーに横になったまま、一織は夜中までぼんやりしていた。
 きっと誰かが声をかけたのだろう、仕事を終えたらしい三月が一度顔を見に来た。三月は真っ暗なままの一織の部屋に驚いた後、ベッドからタオルケットを下ろして一織の体にかけ、頭を撫でて出て行った。また勝手に涙が出たが、何も言われなかったことに安堵した。自分でも、今の気持ちをうまく説明できない。
 どうしてこんなにも動揺しているのか、訊かれてもきっとうまく話すことはできなかった。美津子のことは好きだった。尊敬している。ただ、一織はどちらかというと美津子と仲の良い陸がいたから、という部分が大きかったはずだ。
 明日の朝には、すっかりいつもと同じ顔をしておかなければならない。そう思っても、どうしても億劫で体を起こす気になれなかった。頭の中で明日のスケジュールを思い返す。撮影や収録はないはずだから、もういいか、と目を閉じた。すべては明日やればいい。明日。明日?
 どうして、いつも通りに明日が来るのだと、こんなに簡単にも信じていられる?
 頭の中に響いた声が誰のものだったのか。落ちるように眠りについた一織には、わからなかった。


   *

 陸が体調を崩したのは、梅雨から夏の変わり目のことだ。
 今年の誕生日はちょうどオーラスが陸の誕生日の週にかかった。そろそろ慣れてもよさそうなものを、ファンを巻き込んでのMCでのサプライズに陸は本気で驚き、メンバーも思い思いに彼を祝った。
「お礼に、歌います」
 オレにはそれしかできないから。
 そう言って、ステージにひとり残り、陸はアカペラで歌った。アルバムに収録されているソロ曲で、打ち合わせの段階で一織が特に気に入り、七瀬さんに是非、と推した曲だった。
 袖で聴いていた一織の心は震えた。もう数えきれないぐらいに一緒に歌い、陸の声を聴いていても、それはまるで初めてのように一織の胸をうつ。
 不思議だと思う。心など目に見えず、触ることもできないのに。陸の歌声を聴くたびに、その存在をありありと感じる。
 長く伸ばしたハイトーンが客席に吸い込まれ、一呼吸置いた後、その日一番と言ってもいい歓声が上がった。自分と同じように、この会場にいる全員が、陸の歌声に焦がれている。そう思うと誇らしく、一織も痛いほどに手を叩いた。
 陸がいれば、この七人であれば、どこまででも行ける。心からそう思った。

陸が倒れたのは、その翌週だった。

   *
 寮の玄関前で、大和に塩をまいてもらう。上着の裾を軽く払ってから、大和にも同じように振りかけた。
「暑かったな」
「本当に。二階堂さん、先にシャワーどうぞ」
「いや、イチが先でいいよ。リクのとこ、行くんだろ?」
 なぜ知っているのか、自分は伝えていただろうか、と思ったのが顔に出たのだろう。大和はわずかに眉を下げ笑った。
「俺は夕方から仕事だから。付き合えなくて悪いな」
「いえ。私、言いましたっけ?」
「いや? でもお前さん、この後もオフだろ?」
「ええ、まあ」
 答えになってはいないが、これ以上何かを言うと余計な話になりそうだ。大和の言葉に甘え、一織は先にシャワーを済ませ、陸の病院へ行く準備をした。着替えやタオルなどの日用品は紡が先に持参しているのでそれほど荷物はないが、退屈そうにしている陸のために文庫本を一冊鞄に入れる。そろそろ退院できそうだという話だったから、これで十分だろう。
 タクシーの中で、今から向かいます、と陸にラビチャを送った。それはすぐに既読になり、動くスタンプが返ってきた。よく環が送ってくる王様プリンのスタンプだ。
『さっき、環がちょっとだけ来たよ。プリン持ってきてくれた』
 仕事の合間に寄ったのか。環は一織と同じか、ひょっとするとそれ以上の頻度で病院に顔を見せている。環の手土産はだいたいがプリンなので、陸は普段よりもずっとプリンを食べているはずだ。よかったですね、と返事をしようか考えているうちに、新しい吹き出しが浮かぶ。
『王様プリンすいか味って、結構冒険してるよな!』
『すいか? すいか味なんてあるんですか?』
『限定だって! 一回に二個しか買えないんだって』
『そんな大事なもの、よく四葉さんがくれましたね』
『なー! 一織にも一口あげる!』
『結構です』
 間髪入れず、怒っているプリンのスタンプが表示される。思わず口元が緩みそうになって、慌てて取り繕った。
 陸が倒れたとき、環の動揺はひときわ大きかった。
「なあ、なあいおりん、りっくん、死んだりしないよな」
 青ざめた環に、痛いほどに腕を掴まれたことが思い出される。当たり前でしょう、と返したけれど、きっと一織も環と似たような顔をしていたはずだった。
 処置をするので、と追い出された先の廊下での会話だった。
 たまたま、陸と環と三人での仕事の日だった。その日は急に気温が上がったせいで、どこに行っても寒いぐらいに冷房が効いていた。温度差は陸の体調には良くない。それはわかっていたが、春から始まったいつもに比べるとかなり長丁場のツアー中も陸の体調は悪くなかったし、ここ一年ほどは寝込むこともなくなって、一織はさほど心配していなかった。仕事量も多くはなかったし、終わったばかりのツアーについて陸が楽しそうに話している間も、まったくそんな兆候はなかった。
 はじめは、乾いた咳だった。シャッターの音にまぎれ、聞こえるか聞こえないかぐらいのものだ。レンズに目線を向けながら、一織はそれを聞いた。自分の番まで控室にいればと言ったのに、陸は一織の撮影を見ていると残ったのだ。
 咳は二度三度と続き、ぜい、という呼吸音が混じって、そこでやっと怪訝に思った。良くないと思いながら、陸が座っていたパイプ椅子に目をやる。
 前かがみになって、陸は口元を押さえていた。ひゅ、と空気を吸い込む音が耳につく。その肩が大きく揺れるのを見て、一瞬で頭が真っ白になった。
 七瀬さん、と叫んだと思う。駆け寄ったときにはもう発作が起こっていて、陸の顔は蒼白だった。
「四葉さん、私の鞄を」
 すぐにすべてを察したらしい環は、一織の言葉を聞く前に控室へ走っていた。環が戻ってくるまでの短い時間が永遠のように思えて、一織は陸を抱え背中をさすってやりながら、どうしよう、と考え続けていた。どうしよう。どうしよう。
 吸入させても発作は治まらず、陸はそのまま病院へ運ばれた。
 廊下からは処置室の様子はわからない。扉を閉められてしまえば、音もあまり聞こえない。長椅子でうなだれている一織と対照的に、環はうろうろと廊下を歩き回った。
「……病院ですから。座っていましょう。迷惑ですよ」
 見かねて声をかける。うん、と環は答えたが、まるで上の空だ。もう一度、四葉さん、と少し強めに声をかける。
「……あ、うん」
「ほら。こっちに座って」
「うん」
 糸が切れたように、環が隣に腰を下ろす。はああ、と長い長いため息をついて、環はがしがしと頭を掻き回した。
「ごめん」
「いえ。もうすぐマネージャーも着くと思います。あなた、この後も逢坂さんと仕事でしょう」
「そうだけど、こんなん、置いていけねーよ」
「気持ちはわかりますが、収録は穴を開けられません。行ってください」
「……そうだけど!」
「大丈夫です。大丈夫ですから」
 言い聞かせるように繰り返した。環に対してか、それとも自分に対して言っているのか、よくわからなかった。
 環が一織を見る。心配されているのがわかった。環は優しいから、置いていけない、というのが陸だけではなく自分のことも含んでいるのだと、一織もわかっている。
 だけど、どうしようもない。
「いおりんこそ、全然大丈夫じゃねー顔してる」
「そうかもしれませんね」
 力なく笑った。
 どこかで、期待をしていた。薬は手放せないにしても、大きな発作を起こすこともなくなっていたから、陸の病気はこのまま良くなって、いつかは治るのではないかと。そんな甘い考えでいたから、咄嗟に体が動かなかった。
 陸を抱きかかえたときに聞いた苦しそうな呼吸の音が、まだ耳から離れない。喘息の発作はとにかく苦しいのだと聞いたことがある。
 数年前の自分がどうやって対応していたのか、まったく思い出せなかった。
 ごめん、一織。あえぐような呼吸の合間に、切れ切れに陸はそう言った。あれを聞いていたのは、きっと自分だけだ。
 隣の環が、ふいに一織の方へ体重を預けてきた。
「ちょっと。四葉さん、重いですよ」
「おー」
 返事はあるが、離れる様子はない。ちらりと横を見たが、環の表情は長い髪に隠れてわからなかった。それでも、少しだけ楽になったような気がして、一織は肩にかかる環の重みをしばらくそのままにしていた。

 陸は大事を取って入院になった。前の検査からしばらく間が空いていたから、ついでに、と言えば聞こえは良くないがこの機会に諸々の検査も済ませたほうが良いだろうということだった。
 後から合流した紡はすぐに状況を把握し諸連絡を済ませ、結局ぎりぎりになりそうだった環の移動の手配までしたので、一織は頭が下がる思いだった。
「すみません、私、こんなときについていなくて」
「いえ。私も、まったく予想していなかったので」
 申し訳なさそうに言う紡に首を振った。医者によると、天候の急激な変化の影響が大きいのではないかという話だった。病気そのものの悪化というわけではなさそうで、一織はひとまず胸をなで下ろす。
 帰り際、ようやく落ち着いて会えると思った陸は眠っていた。無意識に呼吸に耳を澄ませる。点滴と酸素のチューブこそついてはいるが、その呼吸は穏やかだ。
 よかった。それを見て、一織は自分もやっと息ができるようになったような心地さえした。
「一度帰って、七瀬さんの荷物を持ってきます。仕事の前なので早朝になりますけど」
「いえ、それは私が! 一織さんも仕事なので」
「大丈夫ですよ。おそらく、私のほうが七瀬さんの私物の場所を知ってると思いますし」
 しばらく紡は逡巡し、確かにそうですね、と一織の意見に同意した。
「本当にすみません。こんなに遅くなってしまったのに、荷物までお願いすることになって」
「いえ、あなたも。明日、早いんでしょう」
「私は大丈夫です!」
 いつもの顔で紡が笑う。内心はわからないが、動揺を見せない彼女がいてくれてよかった。こういうとき、紡はやはり、自分たちを守ろうとする立場なのだと感じる。
「きっと、他の皆さんも心配していると思うので。一応私の方からも連絡はしておいたんですけど、寮に戻ったら一織さんからも心配ないからとお伝えしてもらえたら。スケジュールもどうにかしますから」
「お願いします」
 では、と踵を返しかけた。
「……一織さん!」
 背中から、それを引き留めるように、紡が一織の名前を呼んだ。
「はい?」
「大丈夫です。大丈夫ですからね」
 それは、皮肉にも、さっき自分が環をなだめたものと同じだった。今の自分がどんな様子なのか、なんとなく想像できる。
「わかっています。何も、心配ありません。七瀬さんは大丈夫ですし、私たちも大丈夫です」
 紡は一瞬視線を泳がせて、けれどすぐに正面から一織を見た。
「……はい。そうですよね」
「そうですよ」
 大丈夫だ。何も心配ない。しばらく療養すれば、すぐに陸も元気になる。今までだってずっとそうだったし、一織をはじめ、周りだってうまく対応してきた。陸の体調のことは、もうずっとわかっていたことだ。ただ、少し、そう少し、忘れかけていただけで。思わぬアクシデントには違いないけれど、大筋が何か悪い方向に動いたわけではない。
 いつもの自分であれば、うんざりするような論理的ではない思考だ。起きて待っていた全員へ簡単な説明をし、大丈夫だと伝えている間も、一織がそれを自覚することはなかった。


  *

「一織!」
 病室のベッドで、陸は一織を見てぱっと顔をほころばせた。顔色が良いことにほっとする。
「また見てたんですか」
「えー、うん。またって言うか、二回目だよ」
「その前は別のを見てたじゃないですか」
 陸の膝の上のポータブルのプレーヤーの画面では、TRIGGERが歌い踊っている。見覚えがある衣装だったから、去年のツアーの映像だろう。陸と一緒に観に行ったのはまだ記憶に新しい。
「ほんとはダンスレッスンの動画を見ようと思ったんだけど、今は休めってマネージャーに言われちゃったから」
プレーヤーを閉じ、陸は眉を下げた。
「ああ、この間の?」
「そう。環からちらっと聞いてたし」
「踊れないうちに見ても仕方がないでしょう。今はそれほどスケジュールも詰まってないですから、退院してからで十分間に合いますよ」
 トートバッグを下ろしながら、一織は慎重に嘘をついた。今の陸に言っても意味がないことだ。
「マネージャーは?」
「さっき、洗濯物取りに行ってくれた。一織が来るなら一織に頼めばよかったなー」
「彼女も別に気にしませんよ、今更」
「そうだけど!」
 口を尖らせた陸のパジャマの袖から覗く腕からは、もう点滴が外れていた。一織の視線に気づいたのか、ああ、と陸は言った。
「今朝で終わった! あとは飲み薬になるって!」
「それはよかったです」
「それでちょっと様子見るって。でももうすぐ退院できると思う」
 ごめんな、心配かけて。
 ベッドサイドの椅子に座った一織の胸元のあたりを見ながら、陸がそう言って笑った。
「……あなたがそんなにしおらしいと、気持ち悪いですね」
「なんだよ、それ!」
「そうそう。それぐらいじゃないと、調子が出ないです」
「ほんっと、かわいくないなー」
「かわいくなくて結構ですよ。これ、頼まれていた分です」
「ありがと! すぐわかった?」
「ええ」
 手渡した荷物を確認した陸が、あ、と嬉しそうに声を上げた。
「これ、読みたいなーって思ってたやつ! なんでわかったの?」
「そうなんですか?」
「うん。嬉しい。ありがとな」
 陸が好んで読む作者の新刊だから、と手に取ったのは確かだ。でもそれを素直に告げることは妙に気恥ずかしくて、言いたくはなかった。
「これ、読み終わるまでに退院できたらいいな」
 陸が文庫本の背表紙を見つめ、指でなぞる。できますよ、と一織が言う前に、陸はそっと続けた。
「別にしばらく読めなくってもいいから、退院したいな」
 こぼれた言葉は、きっと陸の本音だった。
「……復帰したら、本当に忙しくなって読書どころじゃなくなりますよ。今だけです」
 どう返事をしたらいいのかわからなくなって、一織の口から出たのはそんなつまらない言葉だった。陸は顔を上げ、そうかも! と笑った。
「しっかり休んでくださいよ。今はそれが仕事なんですから」
「うん」
 妙な顔をしなかっただろうか、と思う。
陸はこちらが腹立たしくなるほどに鈍感かと思えば、どうしてと思うぐらいに感情に敏いところもあって、一織はいつも肝心な時にごまかすことができない。
「一織は? 大丈夫?」
 こんなふうに。
 こちらを見つめてくる大きな瞳は穏やかに凪いでいる。何がですか、と言おうとして、結局言えなかった。
「……あんまり、大丈夫じゃないですね」
「うん」
 つい俯く。汚れひとつない白いシーツが、今は目に痛い。
 陸の手が伸びてきて、小さい子どもにするように、一織の頭を撫でた。やめてください、とは言ったものの、それを払う元気はなかった。
「一織だけに行かせてごめん」
「二階堂さんも一緒でしたよ」
「うん。マネージャーから聞いた。でもさ、一織は、美津子さんとオレと一織、って感じだったし、いつも」
「それは、そうかもしれませんね」
「一織は大丈夫じゃないだろうなって思ってた」
 陸の手が一織の髪をかき混ぜる。どうして、と訊きたかったけれど、結局されるがまま、黙っていた。
「泣く?」
「泣かないですよ。もう泣きましたし、マネージャーも戻ってきます」
「気にしなくていいのに。オレが隠してあげる」
「変でしょう、それ」
「気にしいだなあ、一織は」
「……私は」
 小さくなる声を聞きとろうとするように、陸は一織の顔を覗き込んだ。
「私はいつか、あなたを殺すのかもしれません」
 陸が目を見開く。すぐに、言うべきじゃなかった、と気づいた。
言うべきじゃなかった。なにもこんなときに。
 忘れてください、という言葉は、病室の扉をノックする音に重なった。
「あ、はーい!」
 はじかれたように、陸は近づけていた顔を離す。入って来たのは両手に荷物を持ったマネージャーだ。一織は慌てて立ち上がった。
「持ちますよ」
「大丈夫ですよ、軽い物ばかりなので! 一織さんも座っていてください」
 そういうわけにもいかない。受け取ったバッグは言うほど軽くはなかった。ひとまずその中からタオルや着替えなどの日用品を取り出し、ロッカーにしまった。
「ごめんね、飲み物とかまで頼んじゃって」
「いえいえ。やっぱり、騒ぎになると困りますしね」
 お話し中でしたね、すみません、と言う紡に首を振った。
「いえ。付き添い、ありがとうございます」
「とんでもない。検査、何事もなく終わりました! 結果の説明などはまたいろいろ他も含めて、後日になるそうですけど。予定通り、もうしばらくで退院できるだろうということです」
「ええ、七瀬さんから聞きました」
 何か言いたそうな陸の視線を感じながら、当たり障りのない会話を続ける。紡の話は、おおむね陸から聞いたものと同じだった。さすがに陸も、紡のいる場でそれ以上追及してくることはなくて、なんとなく流れてしまったことに一織は胸をなで下ろす。
 何を口走ってしまったんだろう。いくら不安でも、考えなしに言っていいことではなかった。今、自分は平常心ではないのだ。
わかっていたのに、陸の前では、一織はときどき自分でも思いもよらないほどに無防備になってしまう。
 陸の瞳のせいかもしれない。あの目で見つめられると、もう何も嘘がつけない、と思うことがある。いつも一織が纏っている、何枚ものヴェールが一瞬で取り払われてしまうような。
 病室に残れば、きっとまた同じことになる。そう思って、帰りは送りましょうか、という紡の提案に一織は頷いた。
「もう帰る?」
「ええ。明日、早いんです」
 これは嘘ではない。コメンテーターとして出演している朝の情報番組の放送日なのは陸も知っているから、そっか、と残念そうに言った。
「あ、でも、夜にナギが寄ってくれるって言ってた。早く終わりそうなんだって。だから、オレもそれまでにこれ見なきゃ」
「これって、六弥さんの好きな」
「そう! なんか、特典? があるからいっぱい買ったんだって。あげますよって言われたけど、借りるっていうことにしといた」
 見れば、サイドテーブルに、ナギの好きなアニメのブルーレイディスクが置いてある。
 陸が活動を休止している間、ほかのメンバーで代わりがきく仕事はそれぞれに割り振られている。その分個人の仕事が増え、確かナギは今日、ラジオのゲストの代役だったはずだ。
 それでも、全員がその合間をぬって陸の面会に訪れていた。
 ナギのアニメトークは長いので適当に切り上げるように、と半ば本気で言ったら、陸は冗談だと思ったのか笑っていた。


「大丈夫ですか、一織さん」
 ハンドルを切りながら、紡が言った。
「……何がですか、と言いたいですけど。七瀬さんにも同じことを言われましたよ。私、そんなにひどい顔、してます?」
「そういうわけじゃないですけど!」
 社用車は車の少ない午後の道をなめらかに走っていく。
「冗談ですよ。心配していただいてるのは、わかってます」
「一織さんには余計なことだと、思ったりもしたんですけど。でも、陸さんのことと、続いたので」
 紡は言いにくそうに言葉を続けた。
「陸さんのことで一番負担が増えてるのも一織さんですし、きっとすごく心配されているところに、初山さんの訃報があったので……。環さんも、今はだいぶ落ち着かれましたけど、陸さんのことではかなり動揺されてましたし」
「それは、あなたもでしょう」
「私は大丈夫です。私にできるのは仕事の調整や心配ぐらいなので、それぐらいはしっかりさせてください」
 ちょうど赤信号に引っかかり、バックミラー越しに、紡は一織を見た。
「なにかあったら言ってくださいね。絶対に」
 紡と陸は、こういうところが少し似ている。まっすぐな感情をそのまま一織に向けてくるところと、時々強引なところが。
「ええ。大丈夫ですよ」
 ありがとうございます、と頷いた。それ以外、できなかった。

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