窓の外はもう燃えるような夜明け

二.


「ヒッドイ顔」
 開口一番、眉間に皺をよせ、天は言い放った。
「おはようございます、九条さん。挨拶もなしに不躾ですね」
「おはようございます、和泉一織。キミ、どうしたのその顔」
 苦虫を噛み潰したような表情とは、きっと今の天のようなものを指すのだろう。きれいな顔にそぐわないことこの上ない。
「なにか、変ですか?」
 とぼけたわけではなかった。寮を出るときに覗いた鏡に映る顔は肌も荒れていなかったし、昨晩はいつもには少し足りないにしろ、必要十分の睡眠時間を確保できた。最近寝つきが悪いせいで今日も眠れなかったら、と心配だったのは、翌日がこの天との仕事だったことも大きい。隈でも作って臨んだら何を言われるかわからないからだ。いまだに、天とふたりでの仕事は少し緊張する。
 天は目を細め、検分するように一織の顔を見つめる。
「とりあえず撮影までにその辛気臭いの、なんとかしてよね。今日のテーマわかってる?」
「辛気臭い? 私ですか?」
「他に誰がいるの。だいぶね」
 今日はテレビ誌のグラビア撮影だった。夏の終わりに控えた、天と一緒にMCをやる生放送番組の番宣のためのものだ。夢を持つ十代を応援する、というテーマで、もとは天と陸がメインMCの予定だったのが、陸の体調不良で急遽一織がフォローに入った仕事のひとつだった。
 天に言われ、思わず自分の顔を撫でる。
「辛気臭い……」
「今回の企画、ボクたちは応援する立場なんだから」
「それは、わかってます」
「そう見えないから言ってるの。キミも、考えて撮られるほうだと思ってたけど。ヘアメイクの間に、ちゃんといつもの和泉一織の顔になっておいてよね」
 言いたいことだけを言って、やれやれという様子で天は踵を返した。
「私、今日、疲れてそうですか?」
 つい気になって、ファンデーションを塗るヘアメイクの女性へそう尋ねた。辛気臭い、というのをそのまま言うのはためらわれて、妙に遠回しな言い方になってしまった。そんなことないですよ? と彼女は首を傾げ、でも気になるなら少し濃い目にしておきますね、と手を止めずに続けた。
 スタジオへ入る。天は先に撮影を始めていた。天はこの後別の仕事があるらしく、天のソロカットの後はツーショットを撮り、その後一織のソロカットという流れになると聞いていた。
 用意された小道具を手に、シャッター音のたび、天は表情やポーズを変えていく。それを見ながら、考えて撮られる方だろう、と言われたのはどういう意味だろう、と思った。
 確かに、環などは考えるよりも感覚で撮影に臨んでいるように思う。乗っているときとそうではないときの差が大きくて、昔は写真を見ればそのときの気分がわかったぐらいだった。今でも、例えば音楽を流したり、話したりしながらの撮影のほうが、環は良い画が撮れる。
 一織は、自分がどういう顔をして、どう動けばどういう画が撮れるのかを常に気にしている方だ。カメラの向こう側にどう見えるのか、それを客観視することが一織は得意だった。マネージメントもそうだ。大事なのは、相手にとってどういう一織が見えているのか、どういう和泉一織を期待されているのか、それを知ることだと思っている。
 でも最近は、それが少しうまくいかない。
 天はグラビアも抜群に上手い。表情もポーズも引き出しが多く、撮りたいというカメラマンからのオファーが多いことも頷ける。TRIGGERとしての彼と、個人の仕事の彼はまた少し雰囲気が違う。けれど、そのどちらも、まごうことなき九条天だ。
 今のこの、自分の輪郭がぼやけているような状態で、天の隣に並ぶのはプレッシャーだった。
「和泉さん、お願いします」
 スタッフの声で、一織ははっと我に返った。本当に、意識が散漫になっている。良くない。
 いつもの自分のように、きちんと仕事をしなければ。そう思うほどに、いつもの自分がいったいどんな顔をしていたのか、よく思い出せなかった。
 それでも反射のように、カメラを向けられれば笑顔を浮かべる。肩を寄せたり、相手を見たりという指定に合わせ、なるべく無心でオーダーに応えた。天に注意された内容とは真逆だが、一織も伊達にこの仕事をやってきたわけではない。
 いいね、というカメラマンの声で、天が一織を見た。
「ボクたち、プライベートでも結構仲が良いんですよ。ね、一織」
「え?」
 一体何を言いだすのだ。唐突な天の言葉に、一織は戸惑った。
「この前もふたりでお茶したよね」
 天はにっこりと微笑む。一織、なんて普段呼びもしないくせに。なんのことを言っているんだ、と考えて、だいぶ前に実家に来たことか、と思い当たった。
「ええ、そうなんです。九条さんは甘いものがお好きなので、一緒にケーキを食べに行きました」
 続けることを無言で要求されているのを感じ、一織も慌てて話を合わせた。
 嘘ではないが真実でもない話を、天はにこにこと続ける。一織もそれに相槌を打ちながら、天のポーズや表情に合わせ、撮影を続けた。フォローされていることを嫌でも感じる。そのことを情けなく思う間もなかった。
 衣装替えやセット替えがあるわけではないから、撮影は思ったよりも早く終了した。天はこれで終了になる。お疲れさまでした、と頭を下げると、にこやかな表情は崩さないまま、天はお疲れさまです、と返した。
「またご飯行こうね。今日、ボク、二十一時には空くから」
「は? 今日?」
「仕事は何時まで?」
 口元は微笑みをたたえているが、目がまったく笑っていない。
「いえ、あの、何時に終わるかわからないので」
「そう。じゃあそちらのマネージャーに連絡しておくから」
「いいえ、九条さんに合わせていただくのは申し訳ないですから」
 内心で舌打ちをして、けれど他の目がある手前、なんとか下手に出る。
「ううん。ボクも久しぶりに、キミとゆっくり話したいこともあるから。じゃあまた、後で」
 一織の思惑ぐらいお見通しだと言わんばかりに、天はさっさと話を切り上げた。完全にしてやられた形だが、次の撮影に入らなければいけない一織にはもうどうしようもない。
 お願いします、というスタッフの声がして、一織は急いでカメラのほうへ向き直った。本当に、この双子は強引なところがよく似ている。


「何時に終わるかわからないって、よく言うよね。ボクより終わるの早かったんじゃない」
「はあ。すみません」
「別に思ってもないことを謝らなくてもいいよ」
 眼鏡を外しながら、天は座敷に腰を下ろした。おしぼりを受け取りながら、生ビール、グラスで、とにこやかに注文しているのを見ながら、自分のウーロン茶を一口含む。何か頼んだ、と訊かれたので、いえ、と首を振った。
 差し向かいで天と食事をすることなど、考えてみればめったにないことだ。一杯目にアルコールを頼むことも意外だった。
「キミ、成人してたよね。飲まないんだっけ?」
「飲まなくはないですけど、特に好きと言うわけでも」
「そう。キミのお兄さんとか、喜んで付き合わせそうだけど」
「成人したときにいいだけ飲まされましたよ」
「だろうね。うちもだよ。おかげで、自分がどれぐらい飲んだら潰れるのかわかったけどね」
「強いんですか?」
「普通。弱くはない」
「へえ」
 七瀬さんとは違うんですね、と言いかけて、口をつぐんだ。
 メニューをめくりながら、たわいもない、それでいて探り合いのような会話を重ねる。紡が予約してくれた店はそれほど広くはない小料理屋といった趣で、ほぼすべてが個室であること、裏側からも出入りができることがいかにも自分たちのような仕事の人間には重宝しそうな店だ。
 ほどなく、天の頼んだビールが運ばれてくる。何が食べたい、と問われたので、任せますと返した。言ってから、これは天の機嫌を損ねる返事だったのではと思ったけれど、気にする様子もなく天はいくつかの料理を店員に告げ、メニューを閉じた。
「ほら、乾杯しよう」
「何にですか?」
「なんでもいいよ。何かない?」
「……ちょっと、思いつかないですね」
「じゃあ、一足早い陸の快気祝いで」
 乾杯、と天はグラスを持ち上げた。どう返事をすればいいのかわからず、無言のまま一織も同じようにする。薄いガラス同士が触れ合って、カツンと軽い音がした。それほど目立たない喉仏が上下するのを、なんとも言えない気持ちで見つめた。
「本当、キミもわかりやすいよね」
「あなたこそ、嫌味に磨きがかかったんじゃないですか」
「どうして? 陸から連絡があったよ。もう退院の日も決まったんでしょ?」
「ええ、まあ」
 以前なら、陸の体調のことでピリピリとした様子を見せていたのは、むしろ天のほうだった。それを過保護だと思っていたのは自分だ。
「良かったと思ってるのは本当。そんなの当然でしょう」
 ひどくならなくて、よかった。天は穏やかに続けた。
 陸のことを天に知らせたのは紡だ。比喩ではなく血相を変えて飛んできたそうだから、居合わせた紡も気が気ではなかったことだろう。
 陸の体調のことでは天と何度も揉めている。同業者としての立場からの思いと、家族としての感情が入り混じっているぶん、複雑なのかもしれない。そう思っていたけれど、今となってはそれだけでは片付けられなかった。
「それで? 和泉一織は陸の分の仕事が増えて疲れてるだけ?」
 突然核心に切り込まれ、突き出しのピクルスの酢でむせた。げほげほと咳き込んでいると、何やってるの、と呆れたような声でおしぼりが差し出される。すみません、と言うのも苦しくて、無言でそれを受け取った。
「大丈夫?」
「……ええ。ちょっと、むせただけ、です」
 ほら、と今度はウーロン茶を手渡される。それをごくごくと飲み干し、口元をおしぼりで拭って、やっと落ち着いた。
「すみません」
「いいえ。ゆっくりでいいよ。びっくりするじゃない」
 うろたえたことがわかりやすすぎて、自分でも呆れる。
 天にとっては当たり前のことなのかもしれないが、当然のように世話を焼かれたことも居心地が悪い。口ではいろいろと言うものの、やはりあの弟がいるだけあって、天は基本的に周囲に対して面倒見がよく世話焼きだ。同じグループの楽や龍之介、もしくは実弟の陸、まれに年下の環にそれが発揮されている姿は見かけることがあっても、自分がそうされるとどうしていいかわからなくなる。
「……すみませんでした」
「何?」
「いえ。今日の仕事でも、ご迷惑をおかけしたので」
「え? 今そういう話だった?」
 とぼけているのかそうではないのか、天は一織を見つめ、首を傾げた。うっ、と仰け反りそうになる。十代のころから現代の天使とうたわれた愛らしさは、成人してしばらくした今も健在どころか絶好調だ。天が本気で武器として持ち出してくると、逆らえる人間はいないのではないかとさえ思う。
「違いましたか?」
「全然違う。人の言うことを素直に受け取れないのはかわいくないよ」
「はあ」
 天にかわいいなどと言われたら逆に怖い。
「疲れてるだけなら仕方がないけどね。キミのほうこそ病人みたいだよ。和泉一織らしくもない」
「……私らしいって、なんでしょう」
自分の輪郭がわからない。こんなことは、初めてだった。
アイドリッシュセブンを誰にも負けないアイドルグループにしたい。それは長らく一織のアイデンティティーであったし、今もそうだ。その夢の中心にいるのは、いつだって陸だった。この七人であれば、その真ん中に陸がいれば。ずっと、そう信じていた。
 一瞬でも頭をよぎった『陸を失うのかもしれない』という妄想が、一織のイメージを揺るがせ、ぐらつかせている。
妄想でしかないと思うのに、いつの間にか頭の中にすっかりと根を張ってしまったそれは、打ち消すには大きくなりすぎていた。
「キミがそれを言うの?」
 思ったより重症だね。
 肩をすくめ、天はグラスを空けた。そして、ビールでいいよね、と勝手にふたつ注文される。
「飲めるんでしょ?」
「飲めますけど」
「じゃあいいじゃない。嫌なら嫌って言って。ハラスメントじゃないからね」
「九条さんでも、そういうこと気にするんですか」
「まあね。キミとならボクのほうが年上だから」
 さっきから、運ばれてくる料理を手際よく取り分けているのも天だ。当然のようにするのでどうにも手を出しづらく、一織はされるがままに箸をつけるだけだった。
「強引に約束を取り付けた人とは思えないんですけど」
「心配してるからね、これでも」
 さらりと言われ、一瞬返事に詰まった。すぐに襲ってきたのは情けなさだ。今更。もうずっとわかっていたことなのに。
「それは……ありがとうございます」
「ちょっと。本当にどうしちゃったの? しおらしすぎて気味が悪い」
 天が顔をしかめたタイミングで、新しいグラスが机へ置かれた。ひとつが一織のほうへ押しやられる。天と同じように、一口含む。苦みが舌の上にひろがる前に、喉の奥へ流し込んだ。
「よくわからないんです。自分でも」
 昔、天をなじったことがある。天の言いざまが、あまりにも陸を尊重していないようで腹が立った。陸の一番の望みを取り上げているのは天であるかのように責め、自分こそが、陸の理解者だと思った。
 あれは、自分の方がわかっていなかっただけではないだろうか。身に迫ったものではなかったから。若かったから。自分の中で、陸の存在が今ほどに大きくはなかったから。
 誰かを失うということが、本当にはわかっていなかったから。
 だからあんなにも傲慢に、天を責めることができたのではないだろうか。
 葬儀の様子が頭の中にフラッシュバックする。きっと、今の一織には、耐えられない。
「ずっと、わかっているつもりでした。七瀬さんが歌うということは、ステージに立つということは、アイドルであるということはどういうことか。それを支えるのがどういうことか。……あの人が死んでも歌いたいということが、どういうことか」
でも、きっと、自分はわかっていなかったのだ。
「本当、今更だよね」
 天はゆっくりとテーブルにグラスを置いた。そして、知ってる? と続ける。
「喘息ってね、息が吸えないんじゃなくて、吐けないんだよ。吐けないから吸えない。呼吸をしてもしても苦しくて、まるで溺れてるみたいでね。見たことがあるなら、知ってるか」
「……なんの話ですか」
「うちは両親が夜いない家だったから、ふたりで過ごすことが多かったんだ。陸は入院が長かったから、正確にはボクはひとりのことも多かったんだけど。陸が家にいるとき、ボクは嬉しくて仕方なかった。すごくすごく嬉しくて、ずっとべったり一緒にいたよ。寝るときもふたりでね。陸もボクと一緒に寝たがったし」
 簡単に想像がついた。幼い頃の七瀬兄弟はそれは仲睦まじかったと何度も聞いたことがあるし、その様子はさぞ微笑ましかったことだろう。
 ゆったりと、まるで懐かしむように、天は柔らかな声で続けた。
「でも、嬉しいのと同じぐらい……それ以上にかな。怖くてたまらなかった。ボクが目を離しているときに、陸に発作が出たらどうしよう。気付けたとして、吸入をしても治まらなかったらどうしよう。両親に連絡がつかなかったらどうしよう」
 一呼吸おいて、天は一織の顔を見る。朝方の薄紅の空にグレーを刷いたような瞳が、まっすぐにこちらをとらえた。やはり兄弟だけあって、そのまなざしには面影がある。
 自分の背中が強張るのがわかった。
 一織と目を合わせたまま、ゆっくりと、天が口をひらいた。
「ボクが眠っている間に、陸が死んだらどうしよう」
「……っ、やめてください!」
 聞きたくない。気がつけば思わず、声を荒げていた。
「そんなこと、私に聞かせてどうするんですか。いつかの仕返しですか?」
「まさか。そんなわけないでしょう」
 呆れたように、天は首を振った。
「陸が死んだらどうしよう。そう思うと、心配で一睡もできないこともあったよ。もちろん、慣れるけどね。陸の苦しそうな呼吸で目が覚めるのにも慣れるし、介抱をするのにも慣れる。でも、陸が死んだらっていう不安には、結局ずっと慣れないままだった。まあ、後はキミも知ってる通りだよね」
 天が、何を思ってこんな話を自分にするのかがわからなかった。
「陸にとって、死はすぐ隣にあるものだ。昔よりもずっと元気になった今も、それはきっと変わらない。ボクは陸にまとわりつく死の影を、どこか遠くに追い払いたかった。でも、それも含めて陸だから、ってようやく思うようになってる。遠ざけたい気持ちは、ボクのエゴなんだって。そう思うようになったのは、キミのせいでもあるんだけどね。ほんと、散々な言い方をしてくれたよね、今まで」
 ぐ、と返事に詰まった。謝るのも変な気がして、結局言葉は何も出ない。そんな一織の様子を見て、天はおかしそうに笑った。
「いい。キミのせいなんだよ、和泉一織」
「……それは、どういう」
「言葉の通り」
 それ以上は説明する気はない、という様子で、天は小鉢をつまんだ。


 結局、その後話は仕事のことになり、それ以上追及をすることもされることもなく解散となった。
 疲れた体を引きずるようにして寮に辿り着く。鍵を回す音が、思ったよりも響いてぎくりとした。もう夜中だ。他の皆は眠っていてもおかしくない。
 そうっと玄関に入ると、リビングからはオレンジ色の光が漏れだしていた。誰かがいる。そのことに安心して、一織はほっと息をついた。自分で考えていたよりも、気を張っていたらしい。
「戻りました」
「おかえり、一織くん」
 カウンターに立っていたのは壮五だった。共有スペースにいるときにはきちんと身なりを整えている彼にしては珍しく、寝間着に丈の長いカーディガンを羽織り、首にはヘッドフォンがかかっている。
「お疲れさま。遅かったんだね。ご飯食べた?」
「ありがとうございます。外で済ませました」
 一織の視線に気づいたのか、壮五は照れたように笑った。
「もう寝ようと思ってたんだけど、ちょっとだけ準備をしてたら妙に眠れなくなっちゃって」
「ああ、逢坂さん、明日歌録りでしたっけ」
「そう。なんかやっぱり、緊張するよね。何回やっても」
 壮五は真面目だ。きっともうきちんと覚え切っているのだろうが、レコーディング前にはこうして復習をしている姿をよく見かける。
 手を洗って戻ると、壮五がちょうどテーブルにマグカップを置いたところだった。
「温かいのでよければ、一織くんもどうぞ」
「ありがとうございます。紅茶ですか?」
「ううん。もう夜だからね。ルイボスティーだよ」
 言われてみれば、ほのかに香ばしいにおいが立ちのぼっている。知らずに強張っていた頬が緩んだ。
「お酒飲んできた? めずらしいね」
 顔に出ているのだろうか。思わず頬を撫でたが、向かいに座った壮五はにこにこと笑っている。
「ちょっとだけ。赤くなってますか?」
「そうでもないよ。楽しかった?」
「……疲れました」
 九条さんとだったので、と思わず漏らすと、えっと壮五は声を上げた。
「どうしました?」
「いや……本当にめずらしいなという気持ちと、それは疲れただろうなという気持ちと、ちょっといいなという気持ちが入り混じってしまって……」
「全然よくないですよ」
 思わずぼやいてしまう。
「そうだよね。絶対陸くんの話になるだろうし」
「まあ、そうですね」
 マグカップを取り上げ、一口飲んだ。まだ体内に澱のように残っているアルコールが、ほんの少し薄まったような気がした。
「僕、一回ちらっと病院で会ったんだけど、本当に陸くんのこと心配してたから。だから、退院が決まって安心しただろうね」
「ええ。そう言ってました」
 壮五も時間があれば病院に通い、陸の身の回りの世話をしてくれていた。その時に顔を合わせたのだろう。
「一織くんも大変だっただろう。僕で何かできることがあったら、なんでも言って」
「ありがとうございます」
 今日、環くんがね、と、壮五は続ける。
「退院したら休んでた間のダンスとか、陸くんに教えてあげるんだって、張り切ってたよ。急に無理させちゃダメだよって言ったんだけど」
「ああ。あの人、そういうところ、面倒見いいですからね」
「やっぱりお兄ちゃん気質なんだろうなって思うよね。でも本当によかった。環くんも、一時期すごく不安定になってたから」
 やっぱり、お母さんのことを思い出すんだろうね。
 壮五が目を伏せた。
「そうかもしれませんね」
 一織は頷いた。環は誰かの体調が悪いことにもよく気がつく。基本的に優しいことに加え、そういう性質が育まれた要因のひとつに、彼の家族のことがあるのは容易に察せられた。
「逢坂さんが四葉さんをフォローしてくれてよかったです。すみません、私も、四葉さんまでを気にかける余裕がなくて」
「そんなの、当然だよ。謝られるようなことじゃない」
 わずかに語気を強め、壮五は言った。壮五がこんな言い方をすることはめったにない。思わず視線を上げると、はっとしたように、目を逸らされた。
「いや、違う、そうじゃなくて。……ごめんね。でも本当に、一織くんこそ、もっと自分のことを考えて」
「いえ。こちらこそ、気を悪くしたならすみません」
「ううん。違うんだ」
 別にメンバーに順番をつけるわけじゃないけど、と前置きをして、壮五は話し始めた。
「やっぱり僕から見ても、陸くんと一織くんはコンビっていうか、対というか、特別だろうなって思うから。変な意味じゃなくて。単純に仲が良いともまた違う気がするんだけど。……うまく言えないな。伝わってる?」
「……なんとなく。すみません、私もあまり、人の心のことを慮るのは得意ではないので」
うーん、なんて言えばいいんだろう、と壮五は考え込む。その真剣な様子に、口を挟むことも憚られ、一織は壮五の言葉の続きを待った。
「僕がこういうことを言うのもおこがましいかもしれないけど。僕と環くんは、アイドリッシュセブンのメンバーで、仲間だろ。それは一織くんも同じ。で、僕と環くんは、MEZZO"の相方でもある」
「はあ、そうですね」
「あ、そうそう、一織くんと環くんは同学年だよね。高校生コンビなんて言われてたこともあったし」
 そんな時期もあった。環と同じ制服を着て、同じように学校に通っていたのがもう遠い過去のことのようだ。考えてみれば、それほど前でもないはずなのに。
「そういう、メンバー同士の関係っていうのかな。それぞれあるだろ。同じ学校に通って、同じ時間を過ごしてた一織くんと環くんにだけ通じる空気とか、グループで成人するのが一番遅かったとか。未成年が一織くんと環くんだけになったころ、環くんに言われたことがあったよ。早く成人したいって。この気持ちは、俺といおりんにしかわかんねーって」
 環は早く成人したがっていた。それは一織も同じだ。同じように仕事をしていても、未成年という庇護されるべき存在であることと、法の下に成人として扱われることは天と地ほどに違う。
「それって、あの」
「……恥ずかしながら、こう、お酒の席の翌日に」
「ああ……」
 なんとなく察した。
「ええと、つまり何が言いたいかというと、優劣じゃないし、順位でもないけど、それぞれにある関係の中でも、やっぱり僕にとって環くんは特別なんだと思う。環くんとの関係は、特別だ。それと同じように、一織くんと陸くんも特別なんだろうなって思ってるよ。だから、一織くんが今回のことで特にショックを受けても、それは当然なんだ。当然だし、僕が環くんをフォローするのも当然だ。だから、こんなときまで、一織くんがまわりのことをひとりで抱え込む必要はないんだよ」
 そこまでを一息に話し、うまく伝わってるかな、と壮五は急に弱気な様子を見せた。
「伝わってる、と思います」
「ほんと? うまく言えなくて、ごめんね」
「そんなことはないですよ」
 自分こそ、こういうときになにか気が利いた返事でもできればいいのに、と思う。壮五が一織のことを考えてくれているのは伝わってくるのに、それを上手に受け取ることができない。
 七瀬さんであれば、という気持ちが胸に生まれた。彼ならきっと、とてもうまく、壮五の思いを受け取れるのだろう。
「あと、当然だけど、僕は一織くんのことも心配してるよ。他のみんなもそうだ。それは忘れないで」
「……はい。わかっている、つもりなんですが」
「うん。大丈夫」
 疲れてるのにごめんね、と壮五は言い、空になったマグカップを持って立ち上がった。一織もすっかりぬるくなった残りを飲み干し、同じように椅子を立つ。
「片付けます」
「大丈夫だよ。一織くんのも洗っておくから。貸して」
「いえ、それぐらいはします」
「ううん、本当に。もう僕は寝るだけだから。一織くんも早めにお風呂に入って、ゆっくり休んだ方がいいよ。陸くんが戻っても、しばらくはばたばたしちゃうだろうし」
 少し迷って、結局は壮五の言葉に甘えることにした。シンクに向かう壮五に、あの、と声をかける。
「ありがとうございます。逢坂さんがいてくれて、本当に、とても助かっています」
 壮五はぱちりと瞬きをして、破顔した。
「うん、それ、いいね。そのほうが嬉しい」
 つられて一織も笑みを浮かべる。上手に笑えただろうか。昼間よりもうまく笑えていればいいのに、と思った。

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