窓の外はもう燃えるような夜明け

三.


 足早にテレビ局を出ると、タクシーを捕まえる時間さえもどかしく、一織は寮への帰路を急いだ。
 今日は一織がレギュラーで出ている番組のコーナー収録だった。もともとそれほどNGを出すほうではないが、それでも今日は巻いて巻いて巻きまくって進めたので、予定よりもだいぶ早い上がりだ。よかったよ、と褒めてくれたスタッフへの応対もそこそこに、用事があるので、と風のように出て行く一織に周囲は目を白黒とさせていたが、どうでもよかった。
 急いでいるときばかり、妙に信号に引っかかるのはなぜだろう。窓の外を眺めていると気ばかりが急いて、少しでも落ち着かせようとスマートフォンを開いた。特に急ぎではない分まで業務連絡を済ませ、最後にメンバー間のグルチャを開く。
 予定通り、午前中に陸は退院し、もう寮に戻っていた。今日は仕事で不在の環と壮五に向けてか、『退院したよ!』のメッセージと共に、共有スペースのソファーに座りピースサインをした陸の写真がある。それに続くほかのメンバーのメッセージにざっと目を通して、ほうっとため息をついた。
 とりあえずは、よかった。
 一織も何かメッセージを送ろうかと液晶に指を滑らせてから、結局上手い言葉を思いつかず、そのまま画面を落とした。どうせもうすぐ会うのだ。既読がついたから、一織が見たことはわかるだろう。
 やたらと時間がかかったような気がしたが、精算のときにちらりと時計を見ると、普段とさほど変わらない。自分が浮足立っていると目の当たりにしたようで、思わず苦笑した。
「ただいま、戻りました」。
「おかえりなさい、一織さん」
 初めに玄関に顔を覗かせたのは、エプロンをつけた紡だった。
「病院のほう、ありがとうございます。大丈夫でしたか?」
「ええ、問題なかったです! 陸さんももうお部屋にいらっしゃいますよ。それほど時間は取れないんですけど、快気祝いをするって三月さんが張り切ってて。私もお手伝いにお邪魔しました!」
「ええ、だから急いで帰ってきましたよ。兄さんと二階堂さんはこの後出なきゃいけないんでしょう?」
「オウ、イオリ、おかえりなさい。間に合いましたか」
 続いて姿を見せたのはナギだった。
「当然です。何か手伝いましょうか?」
「もうできるので大丈夫、とミツキが言っていました」
「六弥さんも手伝ってたんですか?」
「オフコース。ワタシは主に、テーブルセッティングなどですが」
 リビングに入ると、ナギの言葉通り、ほとんど準備は終わっていた。おかえり、とカウンターの奥から三月の声が飛んでくる。その隣に立っていた大和も、おかえり、と顔を上げた。
「イチ、予定よりめちゃくちゃ上がり早くないか? 遅れるかと思ってた」
「早く済ませたんですよ。何かしましょうか?」
「おう、こっちはもう済むから。一織は陸呼んできてくれよ」
 スープをよそいながら、三月が言った。わかりました、と答え、陸の自室に向かう。昨日の夜、寝具などもきちんと整えておいてよかったと思った。
 ノックをすると、はーい、と明るい陸の声が返ってきた。
「一織です。もう準備ができるそうですけど、大丈夫ですか?」
「うん。開けていいよ」
 陸は普段着でベッドに座り、腰まで布団をかけていた。
「おかえり、一織」
「戻りました。七瀬さんこそ、おかえりなさい」
「うん。心配かけてごめんな。ありがとう」
「なんで着替えもせずにベッドにいるんですか?」
「オレは大丈夫って言ったんだけど、みんなが寝とけっていうから。でもこの後ご飯食べるのに、パジャマは変だろ」
「確かにそうですけど」
 やっと部屋の主が戻ってきて、どこかうすぼんやりしていた陸の自室にも普段通りの色が戻ってきたようだった。いるべき人を失うと、部屋は一気に存在感がなくなってしまう。
「三月のご飯、久しぶり。楽しみだなあ」
「私も久しぶりな気がします。このところはすれ違いが多くて」
 時間にするとかなり早めの夕食は三月が張り切っただけあり、常よりも品数が多く、豪華だった。退院おめでとう、の大和の言葉で乾杯を交わす。陸は、ありがとう、と照れくさそうに笑った。
「ビールが飲みたい……」
「オレらはこの後打ち合わせだっつうの」
「一回帰ると出てく気なくなっちゃうよなぁ」
 大和と三月も、仕事の合間にこれだけの準備をしてくれたのだ。皆が心から今日を喜び、また安堵している。
口々に全員が揃っていたら、とは言い合ったが、そもそも個人の仕事が増え始めたころから、一緒に住んでいてもすれ違いは多かった。これだけの人数が集まったのも奇跡的なぐらいだ。紡が撮ってくれた写真をアップすると、環からは心底羨ましがっている様子の『いいなあ』が返ってきた。
「リクの復帰はいつからでしたか?」
 皿を取り分けながら、ナギが言った。
「来週ですね。次の受診で問題なければ、徐々に通常通りに戻していく予定です」
 紡が答える。事前に一織と相談した通りだった。
「ほんとはもうすっかり元気なんだ。いつもよりずっとゆっくりできたし、元気すぎるぐらい!」
「念のためです」
 明日にでも復帰すると言いかねない様子の陸に釘を刺した。はあい、と陸は肩をすくめる。
「良かったです。皆、リクがいないとどこか元気がないです。でも無理はしないで」
 ナギがふわりと微笑んだ。
 陸が不在の間、ナギは普段よりも寮にいる時間を作ろうとつとめているように、一織には思えていた。彼なりに、陸がいない間、ここを守ろうとしていたのかもしれなかった。


 楽しい時間はあっという間だった。
 名残惜しそうな大和を三月が引っ張って仕事へ行き、紡もそれに付いて出て行った。陸も片づけを手伝うと言い張ったが、主賓が片付けなどしなくていい、と一織が言いくるめ部屋に戻らせた。今日帰宅したばかりなのだ。
「食洗器を買いましょうと言っていますのに……」
「考えておきます」
 一織が洗い上げた皿を、ナギが隣で拭いていく。その手際は良い。こんなにたくさんの食器を一度に使ったのも久しぶりだ。
「リク、喜んでいました。良かったです」
「本当に。ひとまず安心ですね」
「はい。イオリもどうか安心して。これからはすべてが良くなっていきます」
 穏やかで、でも確固たる信念を持ったような言葉に、一織は一瞬手を止めた。本当に、ナギは周りをよく見ている。
「ええ。そうです。六弥さんの言う通りです」
 実際、状況は良くなっているばかりなのだ。ナギから見れば、何の不安があるのかと感じるだろう。
「イオリが心配をするのは当然です。不安になるのも。けれど、リクが戻ったというのに、まだ何か不安がありますか? ワタシたちは家族ですから、支え合っていくべきです。皆、そう思っていますよ」
「……現実的なことは別として、七瀬さんというより、これは私の問題なんです」
「オウ、イオリひとりだけの問題などありませんよ。聞いていましたか?」
 ナギは首をかしげた。
「皆、イオリの問題を、自分のことのように考えたいと思っているんです。それが、家族です」
「……わかっています。本当に、ありがたいと思っているんです。自分の中で整理ができたら、話せる時が来たら、話します」
 とてもではないが、自分たちの後ろ暗い約束は、ナギには理解しがたい話だろうと思う。自分だって、当事者でなければどうして、と思うに違いない。
 シンクの水を止める。途端にキッチンは静まり返って、ナギが大きな手で食器を扱う音が妙に響く。
「責めているわけではありませんよ。そう思われるのは本意ではありません。イオリが言うように、きっと、時が解決してくれることもあるのでしょう。いつでも待っています」
「ありがとうございます」
 それ以上追及しないナギに甘え、一織も話を切り上げた。片付けもほぼ終わっている。あとはもう、明日の朝以降で良いことばかりだ。
 部屋で過ごす陸のことを考えるともなしに考える。もう休んでいるかもしれない。よく眠れているだろうか。怖い夢を見ていないだろうか。
「では、おやすみなさい、イオリ。良い夢を」
「ええ。おやすみなさい、六弥さん」
 ナギの穏やかな声でそう言われると、一織も今日ばかりは優しい夢を見られそうだと思った。

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