窓の外はもう燃えるような夜明け

四.


 スタジオの扉をくぐると、一気にエアコンの冷気がまとわりつく。濡れた肩をはらい、一織は身震いした。
 まだ夏が終わるには早いというのに、ここ数日はずっと天気が悪く、気温が上がらない日が続いていた。今日も朝から雲はもったりと厚く空を覆い、雨がしとしとと降り続いている。それなのに建物の中はどこも冷房がめいっぱい効いているものだから、一織でさえ体調を崩しそうだ。
 復帰してからはマネージャーがずっと陸についているから心配はないだろうと思いながらも、今朝もついラビチャを送ってしまった。一織の心配にもすべてきちんと対策をしてくれているという返事を疑っているわけではない。けれど、こんな日が続くと、どうしてもあのときのことを思い出してしまう。
 気持ちを落ち着かせるように丁寧に傘を畳み、水滴に濡れた手をハンカチで拭って、一織は指定された控室へ向かった。
「おー、一織。お疲れ」
「お疲れさまです」
 先に入っていたのは三月だけだった。集合時間よりもだいぶ早い。無意識に時計に目をやった一織に気づき、三月はああ、と頷いた。
「オレ、さっきまでここの別スタジオで仕事だったから。中途半端に時間できてもすることないよな」
「そういえば、そうでしたね」
 記憶の中のメンバーのスケジュールを繰る。自分や陸だけでなく、大まかなスケジュールはほとんど把握しているつもりだったが、つい失念していた。
「そう。おまえは?」
「私も学校に寄る用があって。その後は特に何もなかったので、直接来ました」
「夏休みまでなんかあんの? 学生も大変だなあ」
「まあ、いろいろと」
 荷物を下ろし、控室の温度と湿度を確認した。少し寒いが、一織が濡れているせいもあるだろう。夏物のやわらかめのジャケットを脱いでハンガーにかける。
「今日、七人だろ? 久しぶりだよな」
 三月の声が弾む。個人やペア、トリオではなく全員揃っての撮影はかなり久しぶりだ。陸が復帰してからは初めてだった。
「ええ。何誌かまとめて撮影するそうなので、ちょっと長くなりそうです」
 秋の終わり頃にリリースが予定されている新曲の取材と、それに合わせてのグラビアだ。楽曲自体はもうほぼ出来上がっているから、この後は本格的な振り入れやMVの撮影を残すばかりだった。
「楽しみだなー。新曲、ちょっと久しぶりだし」
「そうですね。いい曲になりそうですし」
 そうして、しばらく思い思いに過ごした。三月はスマートフォンを片手に書き物をし、一織は仕事の資料を確認する。これから年末に向けて、やらなければいけないこととスケジュールはみっちりと詰まっている。来年の予定も大きなものはほぼ決まっているので、それに合わせていろいろと練らなければいけないこともあった。
「そういえばさ、陸はいつからダンスレッスン合流するんだ?」
 ふと、三月が思い出したかのように言った。さりげなさを装ったつもりなのだろうけれど、あいにく三月はこういうときの演技があまりうまくない。タイミングを狙っていたのだろう、と一織には簡単にわかった。
「初めは個人で入ってもらうので、私たちとの合流はもうちょっと先ですね。来週の末ぐらいでしょうか」
「なんで? もう、医者から許可は出てんだろ?」
「念のためです」
 一織はそう言い切った。念のためだ。元気になったといっても、病院や家でゆっくりと過ごすのと外に出て仕事をするのはまったく違う。無理をさせたくはなかった。
 ふうん、とあまり腑に落ちていない様子で三月は頷いた。
「七瀬さんは、なんて言ってました?」
「えっ」
「どうせ、七瀬さんが兄さんに愚痴ったんでしょう。一織が仕事をさせてくれないとか」
「そういうわけじゃねえよ。怒んなって」
「怒ってるわけじゃないですよ。ただそう言ったんだろうな、という事実の確認です。あの人は短絡的なので」
「いや、半分怒ってんじゃん、それ」
 呆れたように、三月が肩をすくめる。
「なんていうか、おまえが思ってるほどさ、陸はわかってないわけじゃねえよ。リリースが後倒しになったことも、自分のせいだって気にしてる」
 思わずかっとなった。
 確かに、今回の新曲を予定していた時期より後へずらしたのは、一織の判断だ。時期的にどうにか間に合わなくもなかったが、それは得策ではないと主張した。まだ公表してはいなかったから、なんとか内々の調整だけで済んでよかった、と思っていたぐらいだ。たとえこれが解禁後であったとしても、おそらく一織は同様にしたはずだった。
「そんなことはないです。七瀬さんのせいとかそうじゃないとか、そういう話ではありません。今は延期するのが一番いいというだけです。あの人が万全であることが、私たちにとってもベターということなんです」
「オレ相手にムキになってどうすんだよ」
 は、と口をつぐむ。そんな一織の様子に、三月は苦笑した。
「やっぱ、焦るんだろ、陸も。オレらに悪いと思ってるとこもあるだろうし。こっちは気にしてなくても、本人はそういうわけにもいかないっていうかさ」
「……そういうところが、子どもなんですよ、あの人」
「そうかな。責任を果たそうとしてるんだろ、陸なりに。あとは単純に、歌って踊りたいだけだと思うけど」
「子どもじゃないですか」
「オレもフォローしといたけどさ。でも一織も、わかってやれな」
「……はい」
 どうにも納得していないような返事になってしまったが、一応頷いた一織を、三月はよしよしと撫でた。
「兄さん、私は子どもじゃないので」
「いいじゃんか。一織もお疲れ。みんな、わかってっから」
 この兄に子ども扱いされるのは嫌ではない。嫌ではないから、困る。
 しばらく三月にされるがまま、ぼうっとしていると、控えめなノックが部屋に響いた。お疲れさまです、の声と一緒に、紡とメンバーが入ってくる。
「早いね、ふたりとも」
 一気に室内が騒がしくなる。最後に入ってきた陸が言った。さっきまでの話が話だったので、説明が面倒になり、たまたまです、と返事をした。
「それより七瀬さん、体調は大丈夫ですか。雨には濡れなかったですか? きちんと上着を着て。寒かったら調節するので早めに言ってください。あたたかい飲み物は持っていますか?」
「体調は大丈夫、雨はマネージャーが気をつけてくれたから濡れてないよ。上着は持ってるから後で着る。部屋は寒くない、水筒も持ってる」
 毎回、顔を見るたびに呪文のように確認しているうち、陸も呪文のように淀みなく返事をするようになってしまった。なにそれ、と環が隣で仰け反った。
「いおりん、りっくんのかーちゃんかよ」
「なー! 環もそう思うだろ? ちゃんと何かあったら言うからって言ってんのにさ」
「あなたがた、いろいろな意味で失礼ですよ」
 むすっとすると、陸はあはは、と笑った。
「うそうそ。心配してくれてんだよな」
「当たり前です」
 ほー、と環がわかったようなわからないような顔で頷く。いつも通りの顔ができていて、よかった、と思った。


 スタジオの中も思ったよりも寒くて、撮影が終わるまで気を揉みっぱなしだった。幸い、先取りで秋物の衣装だったので、メンバーによっては暑いぐらいではあっただろう。撮影の合間合間で陸の様子をうかがったが、何ともなさそうでほっとした。
「疲れていないですか?」
 数名に分かれての撮影に入り、陸とペアの一織は衣装替えのためにしばらく休憩となった。
 冷たいものは避けている陸に、常温の水にストローを差し手渡す。ありがとう、と陸はそれを受け取った。
「大丈夫。一織こそ、疲れてない?」
「私は大丈夫ですよ」
「うそ。一織、オレが休んでた間から、ずっと仕事多いだろ。ときどき顔色良くないし。休憩だし、ちょっとでも休んだほうがいいって」
 横になる? と、いそいそと座布団を用意され、一織は面食らった。
「いくつ並べても、椅子で横になるのは難しいですね」
 思わず真顔で返事をしてしまった。逆に体が痛くなりそうだ。
「そう?」
「ええ。おそらく、ほとんどの人がそうだと思いますが」
「環は寝てたよ。よく寝てる」
「器用ですね……」
 気持ちだけで結構です、と言うと、そっか、と特に気を悪くする様子もなく陸は頷いた。
「それに、本当に大丈夫です。疲れてもいないですし」
 多忙であるのは事実だったし、実際疲れているのかもしれないが、陸にそう言いたくはなかった。
「無理しなくてもいいのに」
「別に、無理なんて」
「ごめん。オレに回るはずの仕事までやってくれてたからだよな」
 何か言われるのかと身構えたら、陸は神妙な顔でそう言った。
 文句を言われるのは構わない。ちゃんと理由があってのことだと説明ができるし、一織が陸のためにとしていることで、陸に好かれようとは思わない。むしろ、嫌われても仕方がないとさえ思っている。
「どうして、謝るんですか」
 責めるような色が混ざってしまったのを隠せない。
「兄さんから聞きました。リリースを延期したのも、七瀬さんの仕事を減らしているのも、別にあなたのせいじゃありません。念のためです。今はそれがいいというだけの話です。また、あんなことが起こらないとも言えないんですから」
「オレには、もう任せられない?」
 陸は一織を見つめ、そう言った。その表情も口調も平静だった。
「どうしてそういう話になるんですか?」
 動揺したのは、むしろ一織のほうだった。思わず声が大きくなって、すぐにはっと口元を押さえる。
「ずっと訊こうと思ってたんだけどさ」
 そんな一織を見ても、陸は落ち着いていた。
「覚えてる? 病室で一織が言ってたの、あれ、どういう意味。一織がオレを殺すのかもしれないって。それと、今の一織のオレへの態度は、同じ理由?」
「……こんなところでする話じゃないです」
「だって、今ぐらいしか訊けないだろ。一織は忙しいし、それに、妙にふたりになるの避けてるし」
「そんなこと、ないです」
「嘘だ。オレがわかんないと思ってた?」
 陸とふたりきりになると、一織は、あの言いようのない不安を覚える。足元がぐらつくような、自分がぼやけて、揺らいでしまうような。避けていると言われれば、そうなのかもしれなかった。
「言ってよ」
 先ほどの三月の言葉。寒いほど空調の効いたスタジオ。既視感。病室を思い出させるパイプ椅子。一織の気持ちを見透かすような、陸のまなざし。
 それらすべてが相まって、一織の言葉を引きずり出す。
「私は、……私は、七瀬さんに、死んだように生きるぐらいなら歌えと言ってきました。ずっと。そして、これからもそう言わなければいけない。あなたが望む限り、それこそ、死ぬまで」
 走り出した言葉は止められない。一度始まってしまったステージの幕は、そう簡単に下ろすことができないように。
「だから私は、いつかあなたを殺すのでしょう。そのことに、今はきっともう耐えられない。念のためだなんて詭弁です。あなたのためではなく、私のための」
 陸のため、だなんて笑わせる。気づいていながら、一織は目を逸らしていた。気づかない振りをしていたかった。
 陸がそれを許すはずはなかったのに。
 陸は静かに一織を見つめている。今、自分はどんな顔をしているのだろう。きっと、醜いに違いない。
「それなのに、耐えられない自分が、嫌なんです。これは私の問題です。ずっとわかっていたことなのに、ずっとそう言ってきたのに、きっと本当にはわかっていなかったんです。あなたにずっと歌ってほしい、死ぬまで歌ってほしいと思うのも本当なのに、それでも、違う、だから」
 何を話しているのか、もう自分でもよくわからなかった。
「……あなたを失いたくない。あなたの背中を押すのは私じゃなければいけないのに、そうした後、後悔してしまいそうなんです」
 口の中がからからだ。最後は声が震えて、まともな言葉になったかもあやしかった。
 自分は、陸からのどんな返事を期待しているのだろう。受け入れられても、拒絶をされても、どちらであっても耐えられないと思った。そのどちらでも、絶望的だ。
 あんな約束をした代償なのかもしれなかった。
「すみません。変なことを言いました。忘れてください。お願いだから、何も言わないで」
 恐ろしくなって、口早に打ち消した。
「一織、」
「お願いします。せめて、今だけはもう」
 一織の懇願に、陸は開きかけていた口をつぐんだ。
安堵する間もなく、スタッフからの声がかかった。助かった、と思った。助かった。
 自分がどうやって控室を出たのか、どうやって仕事をしたのか、ほとんど記憶がなかった。

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