窓の外はもう燃えるような夜明け

五.


 それからしばらく、一織は徹底的に陸を避けた。正確には、避けたと言うよりも、徹底的にいつも通りに努めた。
 陸が何か言いたそうに、時折こちらへ視線をやるのにはもちろん気づいていたし、メンバーやマネージャーが妙な顔をしているのにも気づいていたが、すべて知らない振りをした。
 いつもならすぐに業を煮やす陸が、今回ばかりはそれだけで留めているのも気にかかった。
 けれど、しばらくしているうちになんだかまるで自分でも本当に以前とまったく変わらないような気がしてきて、少し気が楽になった。すべてに目を瞑っているだけなのはわかっていたのに、それも徐々にどうでも良くなってきた。
 先延ばしにしているだけだ。でも、このまま、ずっと目を瞑り続けていることだって、できるかもしれない。自分らしくもない思考に憑りつかれたことにさえ、知らない振りをしていた。


 会いに行きたいんだ、と言われたのは、日が短くなりはじめた秋口のことだった。
「誰にですか?」
「美津子さん」
 思わず、陸の顔を見る。そういう一織を予想していたように、陸は穏やかな表情を変えなかった。
「会いに、とは」
「四十九日も終わったからさ、きっともう納骨してるはずだし。お墓参りに行きたいと思って」
「……そうなんですね」
「一織も一緒に行ってくれる?」
 陸の誘いを予想はできたが、どうにもすぐに返事ができなくて、一織はスマートフォンのスケジュールアプリを開いた。
 間を持たせるためだったのに、こんなときばかりすぐに、陸と自分のスケジュールの合うところを見つけてしまうのはなぜだろう。
「行ける日、あるだろ?」
「ありますね。今月の末なら」
「じゃあそこ」
 決まった、とばかりに陸は頷いた。


 その霊園は、駅から歩くには少し遠かった。
 タクシー乗り場に向かおうとした一織に、陸は、
「歩こうよ」
と、言った。歩けない距離ではない。花を手にした自分たちが並んで歩くのは人目を惹きそうな気もしたが、一織は少し迷った後で頷いた。
 まだ気温は高いけれど、陽射しは大分秋めいてきた。平日の昼下がり、歩いている人はそれほど多くはない。
 霊園へ入るとさらに人はまばらだった。街中よりもわずかにひんやりとした空気を纏っているのは、緑が豊かなせいだろう。
 同行しましょうか、と美津子のかつてのマネージャーは気にかけてくれたが、そこまで手を煩わせるわけにもいかなかった。電話口で場所だけを聞いたから、見つけるのに少し手間取った。
 納骨から間もないこともあるのか、そこはきれいに手入れされていた。誰かが来てそれほど日が経っていない様子だった。
「お花、いらなかったかな」
「いろいろな方が来られているんでしょうね、きっと」
 店員に勧められるまま、白のみで作ってもらった花束を見下ろした。百合やカーネーション、かすみ草といった花々の香りが一織の鼻をくすぐる。
「痛んでるのだけ片付けて、一緒にお供えしようか。今のもまだきれいだし」
 簡単に掃除をし、萎れかかっているものや、花びらの端が変色しているものを抜き出して処分する。スペースができた花立てに、ふたつに分けた花を挿した。
「……ちょっと、こう、無理やりじゃないですか?」
「別に良くない? 美津子さん、華やかなほうが好きだし」
「まあ、確かに」
 さみしいよりはいいだろう。いっぱいになった花立てを見て、二人で頷き合った。
 意外にも手馴れた様子で陸は線香に火をつけ、墓前に手を合わせた。一織も隣でそれに倣う。
 故人にとって、線香の香りは食べ物になるのだ、という話を思い出した。こういったこまごまとしたことが、残されたものの心を慰めるのだろう。
「四十九日まではこっちにいるっていうけど、ちょっと間に合わなかったな。もう天国にいるのかな」
 手を下ろし、陸は言った。
「……そうですね。きっと」
 陸と一織は、少しの間、黙って墓前に立っていた。線香の香りは一織には嗅ぎ慣れないものだったが、それでも心が安らぐような気がした。

 そのまま帰路につく気分にはなれなかった。
 陸も同じだったのか、ちょっと座ろうか、と霊園の隅の休憩スペースを指差した。
小さな東屋には他には誰もいない。来る途中で陸が買ってくれた緑茶のペットボトルはもうほとんど冷めていたが、一織は両手であたためるようにそれをくるんだ。
「疲れちゃった?」
「いえ。……いえ、少しだけ」
 陸の言葉を反射のように否定してから、思い直したように肯定した。
 話をするとしたら、今しかないのだと思った。何を話すべきか、何を話したいのかすらよくわからないのに、ただその思いだけがあった。
「美津子さんのお別れにさ、一緒に行けなかったの、ずっと気になってて。一織、つらかっただろ。だから、今日も、ほんとはオレひとりで来た方がいいのかなって思ってた」
 でも、一緒に来たくて。陸はそう続け、遠くを見るように目を細めた。
「ごめん。ありがとな」
「いいえ。私も、今日来られて、よかったです」
 それは本心だった。
「なんというか、葬儀やお墓参りは残されたもののため、というのがちょっとわかる気がしました。正直なところ、なかなか心の整理がつかなくて」
 こうして、慣れない儀式を繰り返して、だんだんと受け入れていくものなのだろう。
「一織、あんまりこういうの、したことないの」
「ええ。ご先祖様に、というお墓参りはしたことがありますけど。身内は皆元気なので、ほとんど初めてですね」
「そっか。オレもねえ、家族はみんな元気だけど。でも、友達のお墓参りに連れてってもらったりとか」
 友達と墓参りという単語があまりにもそぐわなくて、一瞬肩が揺れた。思わず顔を見ると、陸は予想していたように頷き、わずかに眉を下げ笑った。
「オレ、病院が長かったからさ。やっぱり、いたよ。亡くなった友達。今も覚えてる。でもさ、亡くなった後に会えた友達はもういないんだなってちゃんと思うんだけど、そうじゃないと、あんまり実感がないんだよね。病院だから、元気になって来なくなることもあるだろ。だからお墓参りしても、変な感じだった。またふっと会えそうな気がして。なんか、今もそんな感じだな」
 陸の言っていることは、半分わかった。現実感がない。いつかそのうち、何気ない瞬間に、また美津子に会えそうな気がする。けれど一織はすぐ、もうそんなことはないのだと打ち消す。そのたびに味わうのは、言いようのない喪失感だ。
「いつ実感するんだろって思ったけど、やっぱり、例えばもう美津子さんの新しい映画やドラマが見られないとか、オレたちがコンサートしてももう客席にいないとか、ラビチャしても既読がつかないとかさ。きっと、そういうときなんだろうな」
「そうかもしれません」
「さみしいね」
 さみしい。言葉にするとたったそれだけが、すべてだった。
「本当に」
 そのまま、ふたりともしばらく黙っていた。
「なあ、怒んないでほしいんだけど」
 そのうちに、一織の様子をうかがうように、陸が言った。
「何をですか? 聞いてみないとわからないです」
「そこはさあ、嘘でも怒んないって言ってよ」
「あいにく正直なもので」
 むくれる陸を無視して、先を促した。
「オレはさ、たまたまオレじゃなかっただけだなって思ってた。別に、死ぬのはあの子じゃなくて、オレでもおかしくなかったなって。そういう感覚が、今もずっとあるんだ。死にたいわけじゃないよ、もちろん。でもこれは、きっとおまえの中にはないんだろうなって思う。一織は、誰かがいなくなることを知らないから。だから、オレのこういうところが、おまえを傷つけてる」
違う? と陸は続けた。淡々としたその口調が、自分との隔絶をはっきり表しているようで、一織はひるんだ。
「……わからないです」
 天の言葉を思い出す。陸にとって、死はすぐ隣にあるものだ。忌むべきものとしてではなく、当たり前に、隣人のような顔をして。それが陸の幼少期からの経験によるものなのか、人よりも多く離別を経験したことによるものか、理由はわからない。わからないし、きっと考えても意味がない。
 ひるんだ気持ちを奮い立たせ、唇を開いた。今言わなければ、きっと自分はもう伝えられない。
 この気持ちを伝えないまま、今までと同じような顔をして、陸の隣に立ち続けることは、もうできない。
「あなたを受け入れて、背中を押して、あなたが望みを叶えることが自分の望みなのだと思っていました。ずっと、そう思い続けていたかったんです。だから、それができないかもしれないと思ったとき、動揺しました。今も、どうしたらいいのか、わからないです」
「……もう、オレに呆れちゃった? こんなオレには、歌わせられない?」
 陸が小さな声で言った。一織は首を振る。
「違います。逆です。いつか私が、七瀬さんの枷になるのかもしれない。今までさんざん一番の理解者のような顔をしていたくせに、最後の最後にあなたを裏切るのは私かもしれない」
 そう思うと、たまらなかった。
 震えそうになる呼吸をごまかし、細く息をついた。陸は黙って、そんな一織を見つめた。
 懺悔を終えた罪人のような気持ちだった。陸の顔を見られなくて、ベンチの木目を見つめる。
「美津子さんが送ってくれたラビチャ、見せただろ」
 唐突に、陸が言った。
「ああ、はい」
 意図が読めなくて、一織は戸惑う。
「あれさ、コンサート、誘ってくれたのに行けなくてごめんねって。本当に行きたかったから残念、って。あと、今日もオレたちの曲聴いたよって。たぶん、病院から送ってくれたんだろうな」
 想像する。病室で、自分たちを応援してくれていたという彼女は、どういう気持ちでそれを伝えてくれたのだろう。
「曲聴くと、オレたちのこと思い出すんだって。ライブで、オレがどういう顔してたとか、ここで一織とハイタッチしてたとか、自分がどういう気持ちでそれを見てたとかさ。しんどいなって思ったときに、オレたちの歌を聴くと、それを聴いたときの楽しい気持ちとかさ、元気づけられたこととかさ、思い出すんだって。それって、本当にすごいよな」
「……初山さんだってそうですよ。本当に、すばらしい女優さんでした。あの人の演技はまったく古びない。それどころか、今見ても新鮮です。新しいものが見られないのは残念ですが、作品はいつまでも残ります」
「そう、そういうことだよ」
「……なにがですか?」
「オレは生きてるしまだ死にたくないし死なないと思うけど、たとえば、たとえば未来の話、オレが死んでもオレの歌は残るよ。一織や他のみんなのおかげで。それって生きてるのと同じぐらい、ひょっとしたらそれよりももっと、すごいことだろ」
ずっと遠くを見るような目つきで、陸は言った。
 ざわ、と心が波立つ。
 まるで知らない誰かを見ているようだった。一番近くで、誰よりもわかっていると思っていた陸が、こんな顔をするのを一織は知らない。
 怖かった。置いていかないで、と言ったのは陸だ。自分も置いていかないから、と。そう言ったくせに。その口で、平気で自分と死を地続きで語る陸のことが、どうしてもわからない。
 言っている意味はわかる。けれど、うまく理解ができない。
 どこか遠く、ぼんやりと、陸が言っているのはこういうことか、と思った。明確な隔絶だ。理解ができず、また理解が意味を持たないことが、一織にはこんなにもおそろしい。
 いつか置いていかれるのは、自分だ。
 死ぬなんて言わないで、というのは簡単だった。けれど、そう言ってしまえば、取り返しがつかなくなるのだということだけはわかった。それは陸への拒絶に他ならない。
「……七瀬さんの言うことは、わかります」
 なんとか、そう言葉を絞り出した。でも、と続ける。
「時間をください。わからないんです。自分に何ができるのか、どうするべきなのか。私は、どうしたいのか」
「うん。考えて。一織がしたいようにしてほしいから」
 陸は笑った。それが一番難しいのに、と思う。
 いったい、自分はどうしたいのだろう。

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