窓の外はもう燃えるような夜明け

六.


 考えるとは言ったものの、いったいどうすればいいのかよくわからないまま、気がつけば仕事に忙殺されている。
 紡と話し合ったスケジュールに合わせ、陸はもうすっかり普段通りに仕事をしている。どんどん冷え込む気候にははらはらしたが、幸い体調を崩す様子もなかった。
 一織はというと、後期の授業が本格的に始まり、今年度のうちに履修しなければいけない科目とできれば取っておきたい授業を入れすぎたせいでばたばたとしている。仕事によってはどうしても欠席する可能性があるから、と行けるときには真面目に出席しているので、ほぼ毎日朝から大学にいる。そうなると陸と顔を合わせる時間も自然と減り、ほっとしたようなさみしいような、そのどちらとも違うような妙な気持ちだった。
 そもそも、と一織は考える。自分はわからないことが得意ではない。なにかを分析し、きっちりと理解をし、自分の頭の中に整然と収める。それが得意だし、そうしないとどことなく収まりが悪く気持ち悪い。そういう性質だ。その点、わからないことはわからないままで置いておくのが得意な陸とは対照的だといえる。
 それなのに、陸のことになると途端にいろいろなことがわからなくなる。当の本人はというと、一織の気も知らず呑気な様子だ。
 八つ当たりに近いとわかっていたが、時間が経つほどに腑に落ちないような気持ちになってくる。まったく正解に辿り着かない思考ともあいまって、このごろの一織はほとんどふて腐れていた。
 そうこうしているうち、今週から、本格的に新曲のプロモーションが始まった。雑誌の取材、ラジオやバラエティー番組のゲスト、それに歌番組。もうパッケージされ手元にあるCDの評判は身内には上々で、メンバーも上機嫌だった。
 タイトル曲はアイドリッシュセブンとしては久しぶりの、しっとりとしたバラードだ。予定には生バンドと合わせての企画もある。とにかくライブ感で生きる陸の良さを知らしめるにはうってつけとも言えた。
 さすがに今回は休業を公にせざるを得なかったこともあって、ここで一気に波に乗りたい、という思いが一織にはあった。
 陸は企画が決まったときから喜んでいたし、そういった戦略とは別にして、一織も楽しみだった。

 アイドリッシュセブンの皆さんです、の声に合わせ、ステージに向かう。歓声を上げる客席に、それぞれ手を振ったり頷いたりしながら、決められた場所に立った。
 リハーサルでも陸の調子は良かった。これなら心配はない。今回は特別番組の企画に合わせ、生バンド演奏によるこれまでのシングル曲を合わせたメドレーと、新曲を披露する予定だ。
 カメラが回る前、収録用に集められた観客の前で、大和が簡単に挨拶をした。復帰のときのメディアへの挨拶や、またファンクラブ向けの動画などではすでに何度も触れているが、陸の休業以降、ファンの前に立つのは初めてだ。こちらを見ている視線にも不安や心配が含まれているのが伝わってくる。
 リク、と振られ、陸が頭を下げた。
「ご心配をかけて、すみませんでした。休んでいる間、ファンのみんながとても心配してくれているって、聞いてました。不安に思った人もたくさんいたと思うし、デビューしてから、こんなに歌えない時間が長かったのはオレも初めてで、いろいろ考えたんだけど。……でも、それを言葉で説明するのは難しいから、代わりに聴いてほしいなと思います」
 陸らしい挨拶だった。
 それぞれが立ち位置につく。アレンジされてはいるものの、聴き慣れたメロディーが始まった。


 数曲で構成されたメドレーは普段よりも長く、一織は心配していたものの、陸は難なくやりきった。バンドの音に合わせ、普段よりも声が跳ねている。
 すれ違いざまに目を合わせると、陸はかすかに頷いた。それで、完全に不安はなくなった。これなら、新曲も十分にやれるだろう。
 曲の切れ間に、一瞬の静寂が生まれる。
 ふ、と顎を上げ、陸が宙を見つめた。その仕草だけで、がらりと空気が変わった。さっきまでの高揚がさあっと引いて、スタジオは静寂に包まれる。観覧の客でさえ、息を呑むような緊張感だ。
 フォーメーションが整い、スタッフが合図をする。一呼吸おいて、ピアノのイントロが流れ始めた。生の音はやはり違う。一織の耳でもはっきりとわかるそれが、陸にはいったいどう聴こえているのだろう。
 スタジオは海のような照明に沈んでいる。ドラマティックを予感させるような旋律が満ちていく。
 陸がすうっと息を吸い込み、初めの一音を乗せた。
 一織は目をみはった。何度も聴き、歌ったはずの曲が、まったく初めての出会いのような鮮烈さで飛び込んできた。思わず、陸の顔を見る。
 陸は見たことのない顔で微笑んでいた。
 うつくしく響く、伸びやかなメロディー。陸の周り、そこだけがぱっと明るく見える。
 涙が出そうだ。滲みかけた視界の中、陸だけが光る。
 爆弾を抱えている陸の胸を空気が満たし、気管に繋がって、声帯を震わせる。なぜだろう、やっぱり、心は胸の中にあると思うのだ。そうでなければ、こんなにも胸が痛くなるはずがない。
 まるで、何か大きな力が陸を歌わせているようだと思った。音楽という大きな力が、陸を依代にしてここに降り立っている。
 この人を音楽と引き離して生きてはいけない。さんざん悩んだことが嘘のように、自然にそう受け入れていた。受け入れざるを得なかった。
 陸の力強さに導かれるように、メンバーが声を重ねていく。一織もそれに続いた。まるで、陸に手を引かれ、どこか高いところに連れ出されるようだ。
 曲が終わった瞬間、爆発的な悲鳴がスタジオを包んだ。しばらくの間、それがおさまることはなかった。


 楽屋へ戻る間も、興奮冷めやらずという言葉がぴったりだった。
 やはりリクは素晴らしいです、とナギが言えば、珍しく大和も興奮気味に頷く。三月は伸び上がって、遠慮なく陸の頭を撫で回した。楽しかった、と言う壮五は高揚が残っているのかどこか上の空に見えたし、環はりっくんすげえな、と明快に賞賛した。
一織だけが何も言えず、一番後ろから、まだ夢うつつな気分でふわふわと歩いていた。
 そうしている間に、ほかのメンバーは皆部屋に入り、一織も続こうとする。すると、すぐ前の陸がぐるっと振り返った。
 驚いて、その顔を見つめ返した。妙に怖い顔をしているな、とぼんやり思った。
「一織、飲み物買いに行こ!」
「はい?」
 部屋にあるじゃないですか、と言う間もなく、手を引かれた。

「ちょっと、私、財布持ってないですよ」
 ぐいぐいと引っ張られ、つんのめりそうになりながら廊下を歩く。そもそもまだ衣装なのだ。持っているわけがない。
「あ、オレも」
 やっと思い当った、という様子で陸は唐突に立ち止まった。一織は思わず転びそうになる。ポケットをごそごそと探ってから、ないね、と妙に冷静に陸は言った。
「なんなんですか……」
「ごめん、ほんとは、飲み物とかどうでもよくて」
「はあ?」
「ふたりになりたくて」
「はあ、あの、廊下ですけど」
 廊下を行き交うスタッフもタレントも忙しそうで、誰も特にふたりのことを気に留める様子もない。それでも一応そう言うと、そうだね、と陸は再び歩き出した。まったく理解の追いつかないまま、一織もそれに続く。
「ねえ、オレ、今日どうだった。どう思った、一織」
 少し奥まった休憩スペースに一織を連れ込み、陸は硬い表情でそう言った。
 どうしてそんなことを訊くのだろう、と戸惑った。いったい、陸は何を考えているのだろう。どうだったかなんて、訊くまでもなくわからないのか。
「どうもこうも……」
「だめだった?」
「だめなわけないじゃないですか。くだらないことを言わないで」
「なっ、くだらないとか言うなよ!」
「くだらないですよ!」
「オレ、真剣なのに!」
「私だって真剣です!」
 思わず大きな声が出た。は、と我に返り、一織は声を潜めた。
 だめなわけがない。最高だった。
「最高です。最高でした。こんな言葉では足りないぐらい。私がどう思ってるのか、見せる方法があればいいのにと思うぐらい」
 この胸を開いて見せたら、今の気持ちが陸に伝わればいいのに。半ば本気で思った。
 陸は一瞬気の抜けたような顔をして、それからほうっと息を吐いた。
「よかった……緊張してたから」
「あなたが? あれで?」
「緊張するよ! 久しぶりの音楽番組だし、お客さんがいるし、生バンドだし、それに一織がいるし」
「私?」
「オレ、ずっと考えてたんだけど、今日わかったことがあって」
「はあ、なんでしょう」
 話があちこちに飛ぶ。陸の突拍子のなさにはもうすっかり慣れたものだが、今のぼんやりしている一織は頷くことしかできない。
「オレさ、前、一織がしたいようにしてって言っただろ。ごめん、あれ取り消して」
「は?」
 真剣な顔でそんなことを言うから、思わず間抜けな声が出た。
「オレはずっと歌うよ。歌えって言ってよ。きっと一織を傷つけるし、後悔させると思う。でも言って。オレが明日死ぬかもしれなくても、歌えって言って」
 陸は一織を見つめる。同じように、一織も陸を見つめ返した。
 近くで見る瞳の中は、燃えるような色をたたえている。ああ、と思う。これは、朝焼けの色だ。
「オレの最期の歌を聴くのはおまえだよ」
 何を言われているのか理解をする前に、すうっと背筋が冷えた。陸の言葉を頭の中で反芻する。さっきの陸の様子が鮮やかに胸に迫って、次の瞬間には体が熱くなった。
「……本当に酷ですね、あなたは」
 言葉とはうらはらに、一織は笑っていた。きっと泣き笑いのような顔ではあったけれど、ここで笑えた自分にどこかほっとした。
「……泣いちゃう?」
「泣きません。でも、七瀬さんが死んだら泣きます。歌えなんて言わなければよかったと、きっと思います」
「うん」
「でもそうしろとあなたは言う。私が傷ついても、後悔しても、そうしろって言うんでしょう?」
「ねえ、それ、オレがすごいひどい人みたいじゃない?」
「違いますか?」
 違わなく、はないかも、と陸の語尾が弱くなった。
「言いますよ。あなたが望む限り、歌いなさい。そう言えるのは、私だけですから。でも七瀬さんが死んだら私は泣きますし、後悔もしますし、傷つきます。きっと、立ち直れないぐらいに」
 それを許して、と続けた声は、途中で消えそうになってしまう。けれど、最後まで言う前に、陸にぎゅっと抱きしめられた。頭を抱え込むようにされて、反射のように手を回す。
 着替える前の汗に混じって、石鹸と日なたの香りが混ざり合ったような、いつもの陸の匂いがした。
「ありがとう」
「……ねえ、あなたの最期の歌だけは、他の誰にも聴かせないで。私だけのものだと、思ってもいいですか」
 罪悪感に声が震えた。
 ひどい強欲だ。陸が降らせる星を、自分だけのものにしたいなんて思ったことはなかったはずなのに。けれど一度口に出してしまえば、それは抗い難いほど甘美な誘惑だった。陸のせいだ、と理不尽に思った。陸のせいで、一織の心はめちゃくちゃだ。
「いいよ。何の歌がいいか、決めておいて」
 死ぬような思いで口に出したのに、人の気も知らずに、陸は能天気に言った。人の気も知らずに、ともう一度思って、回した手で背中をばしんと叩いた。
「いたっ」
「決めるまで、あと五十年ぐらいはかかりますよ」
「うーん、いいよ。それまで頑張る」
 陸の返事に笑って、今度こそ涙が出た。
「オレも、なんでだろ、他の人には聴かせてほしくないよ。アイドル失格かもしれないけど。でも、さすがに死ぬときはアイドルじゃなくってもいいよね、多分」
「……いいんじゃないですか、きっと」
「アイドルじゃないオレたちって、なんなんだろうな」
「さあ」
 ずっ、と鼻をすする。目の奥も、耳も熱い。
 陸がゆっくりと体を離した。顔を見られたくなくて、じっと床を見つめる。
「……泣いてる」
「泣いてません」
「意地っ張り」
「七瀬さんに言われたくありません」
 からかうように、わざわざ顔を覗き込んでくるのが腹立たしい。きっと赤くなっている目で自棄のように睨み返すと、ふ、と陸は笑った。
「アイドルじゃないオレたちがなにか、オレにはわかんないけどさ。オレは、一織のことが大事だよ。きっと、おまえがオレのことを大事に思ってるのと同じぐらい」
「……そ、れは」
 一織はぽかんとした。この人は、何を言っているのかわかっているのか。一織と同じぐらいだなんて、それが、どういう意味か。
自分の気持ちを軽んじられているとは思わない。だとしたら余計に、悪いと思えばいいのかいいと思えばいいのか、ああ自分は今、混乱している。
 一織は諦めて、ぐるぐると空回りする思考を放り投げた。見つめ返してくる陸の目はまっすぐで、それがとてもまぶしい。まるで陸の周りがぴかぴかと光っているようだ。
 いつだって、ずっと陸はこうだった。
 そのまま、しばらく目を合わせていた。おそらく短い時間が、一織には永遠のように思えた。弾む心臓の音ばかりが耳について、うるさくて仕方がない。
なにかに出会うことを、心の窓をひらかれたような、とか、新しい世界に連れ出されたような、という言い方をすることがある。陸の歌は一織の心にある窓を、こちらが許す前に大きく大きく開け放ってしまった。
 流れ込んだ景色は初めて見るものばかりで、きっとひとりでは一生目にすることはなかっただろう。何も知らなかったころにはもう戻れないし、一度開いてしまった窓を閉めることは、一織にはできない。
 外には数えきれないほどのきらきらと光る喜びがあることを、もう知ってしまったから。
「……なんか、言ってよ」
 しびれを切らした陸が急かした。なにもわかっていないのか、わかっていて知らない振りをしているのか、一織には判断がつかない。頭はぼんやりと熱く、なのにどこか冴えている。
「なんて言えばいいのか、わかりません」
 素直な気持ちだった。けれど、それは陸の意に沿うものではなかったらしく、もどかしいようにぐっと手を握られた。
「なんかあるだろ。嬉しいとか、いやだとか」
「いやなわけないでしょう」
「じゃあ嬉しい?」
 嬉しいといえば嬉しい。だけどそれだけではなくて、おそろしいような、絶望的なような気もする。それをうまく説明するのは難しかった。
「嬉しいなら嬉しいって言ってよ」
 まるで悪い誘いのようだ。嬉しいと、口に出してしまえば最後のような気がした。自分がずっと必死に守り続けてきたなにかが終わって、台無しになってしまう。
ずっと、窓から見上げる夜空に、流れる星に、手を伸ばし続けてきたのかもしれない。でも、それはきっと、手が届かないとわかっていたからこそできたのだ。願っていながら、手に入らないと諦めていたから。
 握られた手が汗ばんでいるのを感じる。今、見つめているのは流星なんかじゃない。切れば赤い血が流れる、生身の七瀬陸だ。
「……嬉しい、です」
 とても逆らえない。
 今度はゆっくりと引き寄せられる。まるで、嫌なら逃げろと、時間を与えられているようだった。
 もう逃げられるわけなどないのに。
 はっきりと、自分の意思で、一織は陸を抱き返した。

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