ファーストキス、あるいは

 一織の背中はほとんど揺れることがない。
 ときどき手を止めたり、耳に髪の毛を掛けたりといった動作は入るけれど、すっと伸ばした背筋は書き物をしていても何かを読んでいても、ずっとまっすぐだ。
陸はそれを、少しつまらないような気持ちで眺めている。


 夕食後だった。
今日は朝から寮にあまり人がいなかった。陸が起きてきた時間はもう既に家を出てしまったか、まだ眠っている者ばかりだったらしい。めずらしいなと思いながら、陸はひとりで朝食を摂り、身支度を整え、ひとりで家を出た。仕事は午前にあった簡単な顔合わせだけで、それもめずらしくつつがなく終了した。
 こんな日もあるんだなあ。そう考えながら、陸はぽっかりとできたひとりの時間を持て余していた。
 キッチンはおそらく三月か壮五が寮を出る前にきれいに片付けてくれていたし、洗濯物も溜まっていない。持ち回りでやっている掃除当番を引き受けようかと思ったものの、どうも済ませたばかりのようでどこもきれいだ。自室の掃除は先日もしたばかりだったのですぐに終わってしまったし、手元の本も移動の合間に読み切ってしまったところだった。
 事務所に行って何か手伝おうかな、とも考えた。しかし、陸が突然事務所を訪ね何かやりましょうかと言ったところで、ただ気を使わせるだけのような気がしてやめておいた。
 つぎに、どこかに遊びに行こうかな、と思ったものの、わざわざひとりで行きたい場所もすぐには思いつかない。
 陸は誰かと一緒じゃないといやだ、というタイプではない。それでも、例えば映画、お茶や食事、買い物も、せっかくなら誰かと一緒のほうが楽しいと思っている。ひとりで出かけて、この映画が面白かった、あのカフェのあれがおいしかった、という話を誰かにするのも素敵だけれど、どうせならその時間を共有できたほうが楽しいと思う。
 というわけで、貴重なオフだというのに、陸はほとんどの時間を持て余したように過ごしてしまった。
 いい加減退屈すぎて、今日二度目のストレッチをしていたところに、帰宅したのは一織だった。
 陸は喜んでそれを迎えた。おかえり一織、お疲れ、遅かったね、と、作り置いてくれていた食事をあたため、お茶を淹れ歓迎したのに、
「なんなんですか、いいからもう手は出さないで」
と一織は言い放った。
「なんだよ、そんな言い方しなくてもいいだろ!」
「自分でできるので。気持ちだけで結構です」
 たしかに、あたたまりすぎた皿で火傷をしかけたときには一織が飛んできたし、箸を取ろうとした拍子に手があたってマグカップを倒してしまったことは悪かった。でも結果的には皿も落とさず、お茶もテーブルの上だけでとどまり、マグカップも割れなかったというのに。
「してやりたかったのに」
「だから、どうしてですか? 私も別に疲れていませんし、これぐらいのことは自分でできます。あと、食べにくいのであんまりじろじろ見ないでください」
「おいしい?」
「おいしいですよ」
 炊き込みご飯を口に運びながら、一織はうなずいた。
「だって、今日、ほんとにすることなくて退屈だったから。やっと一織が帰ってきたと思って」
「別に、私を待ってたわけじゃないんでしょう?」
「ん?」
「ずいぶん調子のいいことですが、他の誰でもよかったんでしょう、と言ってるんです」
「もちろん、誰でも嬉しかったと思うけど。何? やきもち?」
「まさか」
 予想していたのか、陸のからかいを一織は澄ました顔で一蹴した。ちぇ、と思わず口に出る。
 一織が食べているのを見ると、ちょうどいい、という言葉が思い浮かぶ。おいしそうに食べるし、落ち着いていて、スピードも早いわけでも遅いわけでもない。汁物から始まり、おかず、ご飯、とすべての品をバランスよく口元に運ぶ箸使いはとてもきれいで、ちょうどよくて、きちんとしている。きっと誰であっても、一織と食事を共にしてその様子に気を悪くする人はいないだろう、というような。
 見ないで、と言われたのでじっと見つめるのはやめ、それでも席を立ちがたく、陸も一織の斜め向かいでお茶を啜った。ひとりで過ごしたのはたったの数時間でしかないのに、最近はそんなことはほとんどなかったので、どうも人恋しくてしかたがなかった。この仕事をしていて、そしてこの寮に住んでいて、ひとりきりになる時間なんて、考えてみれば本当に少ない。いつのまにか、それにすっかり慣れてしまったのだろう。
 一織が食事を終えても、他には誰も帰ってこなかった。何度も確認した予定表の通り、他の皆は遅くなるようだ。
 一織とふたり、キッチンを片付けて、自室に戻ると言う一織に無理やりのようにくっついてきて、そして今に至る。
 陸がいるというのに、一織はずっと机に向かっている。やることがあるので、と渋る一織を気にしなくていいからと言いくるめて部屋に上がり込んだ手前、退屈でも退屈だとはどうも言いづらい。陸はラグの上でクッションを抱えて、その様子を見つめた。
 一織の部屋は物があまりない。生活に必要な最低限の物は揃っているけれど、その多くない物はほとんど常にきちんと整理整頓されている。そのせいか、どうもくつろぐという感じにならない。休む場所といえばベッドぐらいだ。
 そういうところも含めて一織らしい部屋だ、と陸は思っている。思ってはいるが、こういうときはもう少しだらっとしやすい場所があればいいのに、とも感じる。
「気をつけてはいますけど」
「え?」
 唐突に、一織が言った。なんだろう、と思っていそいそと居住まいを正す。肩ごしに、一織は陸を見た。
「クッションです。まめに掃除するようにしていますが、あんまり埃を吸い込まないでください」
「ああ、うん、大丈夫」
「あと、退屈だったら部屋に戻ってもいいですよ」
「……別に退屈じゃないし」
「ではお好きに」
 一織は平然と言うと、また机に向き直った。かわいくない。陸はむっと頬を膨らませる。
「一織はオレと遊びたいとか思わないの?」
「遊びたい、とは、あんまり。あと、せっかく早く帰って来られたので、私も今日のうちにしたいこともあるんです」
「思わないの!?」
「……逆に、七瀬さんは私と何をして遊びたいんです?」
 今後は椅子が引かれ、体ごと一織が振り返る。その表情はややうんざりとしていた。何、と言われても。何と言われても、すぐには思いつかない。陸は急いで考えを巡らせた。
「えーと、うーんと、あ、TRIGGERのライブ見る? 先週発売したやつ!」
「それ、この前も見たじゃないですか。たしかに勉強にはなりますが、七瀬さんのように毎日でも見たいかというと、私はそういうわけでも」
「えっ、そう? ほんとに?」
「ですから、逆になんで私が毎日見たいと思うんです?」
 一織があきれた様子で言った。いけない。これでは本当に追い出されかねない。自分が一織の時間を邪魔しているのはわかっているが、まだ寝るには早いし、またひとりでぼんやりと誰かが帰ってくるのを待つのはごめんだ。
「えーとえーと、あっ、そうだ、じゃあ三月の番組は? ほら、この前、百さんの番組のゲストに出たやつ。あれいいよね。食べ歩き。オレまだ見てないんだ。一織見た?」
「見ました」
 即答だった。
「あ、見たんだ。じゃあどうしよ、なんか他に」
「見ましたが、七瀬さんが見ていないのならもう一度見てもいいですよ」
「えっ、別にいいよ。オレ、ひとりで時間あるときに見るし」
「いえ、七瀬さんもひとりでこういうバラエティーに出ることもあるわけですし、早く見ておいたほうがいいんじゃないですか?」
「え、そう? そうかな? オレにもそういう話来てるのかな……一織知ってる?」
「具体的に知っているわけではありませんが。そのレコーダーにも録画しているので、すぐに見られますよ」
 そう言うと、一織はいそいそと椅子から立ち上がり、陸の隣に腰を下ろした。これが終わるまで動く気はない、という様子だったくせに。少し面白くなくなるが、それでもせっかく一織が手を止めてくれたこの機会を逃したくはないので黙っておく。
 いくつも録画されている番組の中から、一織はよどみなくひとつを選んで、再生ボタンを押した。オープニングの映像と音楽が流れ始める。こんばんはー! と満面の笑顔の百が映し出された。
 長らく百がメインMCを務めている番組に、先日三月がゲストとして招かれた。楽しかった、というのは聞いていたから、陸は放送を楽しみに待っていたのだ。
「全部見ますか?」
「あー、ううん、三月のロケのとこ先に見ようよ」
 わかりました、と一織がうなずく。
 三月が呼ばれたのは、毎回ゲストを迎えて百がロケをするコーナーだ。今回はややローカルな商店街で、お店に立ち寄りながらミッションをこなしていくという内容だった。
『はい、それでは今日のゲスト、IDOLiSH7の和泉三月くんでーす!』
『はーい! IDOLiSH7、和泉三月です! よろしくお願いしまっす!』
 百の紹介で、三月の弾ける笑顔がアップになった。スタジオよりもラフな衣装を着た百と三月、それにレギュラーである中堅どころの芸人のひとりと最近よく顔を見る女性アイドルが並んでいる。
 今回の内容は、番組からのミッションに沿って知る人ぞ知る地元グルメの名店を網羅しようというものらしい。三月が商店街を歩いている男性に話しかけ、行きつけの店を聞き出している。自分たちの番組でも先に立ってMCを進めているだけあって、その様子はスムーズだ。
「あ、見て見て一織、たこ焼き! おいしそう」
「ええ、そうですね」
 どんどん進んでいく番組を、一織は真剣に見つめている。なんだか思っていたのと違う。陸はその横顔とテレビの中の三月をかわるがわる見比べた。画面の中では、百のツッコミに三月が笑っている。七人でいるとだいたいのツッコミは三月なので、ちょっと新鮮な感じだ。
 番組は面白いし、いつもはあまり見ない三月が見られて楽しいし、楽しみにしていたのは本当だが、どうせなら見ながら一織とあれこれとおしゃべりをしたかった。しかし、どうもそういう雰囲気ではない。真剣すぎる。
「一織、一回見てるんだよね?」
「ええ、まあ」
 思わずそう尋ねてしまったが、陸の本意は伝わらなかったらしく、簡潔な返事があっただけだった。
 何を言ってもその調子なので、途中で陸は諦めた。どうも、三月のコーナーが終わるまでは構ってもらえそうにない。
 面白くないので、テレビに八割、一織に二割だった意識を切り替え、じっと一織の横顔を見つめてみる。いつもだったらすぐ、「なんですか」だとか、「どうしましたか」だとかという言葉が飛んでくるので、考えてみればこんなふうにじっくりと一織の顔を見るのは新鮮だ。
 すっと通った鼻梁からくちびる、それに続く顎へのラインがきれいだ。ほとんど手入れがいらないぐらいにもとから形の良い眉、その下の涼し気な目元に似合っている長いまつげといったパーツのひとつひとつはもちろん整っているけれど、きっとそれ以上に配置が絶妙なのだと思う。年齢にしては大人っぽい顔立ちの中、頬にはまだかすかにやわらかな雰囲気が残っているのも好感を高める要因のひとつかもしれない。かっこいいよりもかわいいと言われることの多い自分の顔を思い浮かべ、つい陸は自分の頬を触った。
 ふ、と一織の目元がゆるんだ。つられてテレビに意識を戻すと、画面には課せられたミッションを果たしたらしい三月が喜んでいる様子が映っていた。
 三月を見るとき、一織はよくこういう顔をしている。特に仕事中以外、プライベートでは顕著だ。あなたもでしょう、と言い返されるので黙っているけれど、この年齢にしてはやや珍しいぐらいに、一織は兄である三月のことが好きだ。
 いつもなら、仲が良くていいなあ、と思うだけなのに、今日の陸にはそれがあまり面白くなかった。三月を見ている一織はいつもやさしい顔をしている。陸に向かって、そんな顔をしているところはめったに見たことがない気がするのに。今日だって、陸は一織の帰りをこんなにも待ちわびていたというのに、一織が陸に見せたのは呆れた顔かうんざりした顔だけのような気がする。
 気がつけば、番組はエンディングに差し掛かっていたらしい。そしてようやく、一織が陸の顔を見た。おそらく感想を問おうとして、口を開きかけた。しかしすぐに、怪訝そうに眉を上げる。陸がむすっとしているのに気がついたのだろう。
「何?」
「……なんですか、その顔」
「なんですかって、何」
「むくれてるじゃないですか」
「だって、一織全然相手してくれないんだもん」
「もん、って……七瀬さんも見たかったんじゃないんですか?」
「そうだけど!」
 いつの間にか、目的と手段が入れ替わっている。陸の中ではそういう認識に他ならないが、まったくそう思っていないらしい一織に説明するのも癪だ。
「オレ、一織と遊びたかったのに」
「だから、一緒に見たでしょう?」
「違うし!」
 ますますむすっとした陸に向かって、はあ、とこれ見よがしに一織はため息をついた。
「七瀬さんだって、九条さんの何かを見てるときは似たようなものじゃないですか。この前、ライブの映像の途中で私が話しかけたとき、自分がなんて言ったから覚えてます? 『ちょっと黙って』って言いましたよね?」
「そっ……それはそうかもしれないけど!」
「私だけ責められるなんて、理不尽です」
 ぐうの音も出ない。そんなことを言ったのかどうか、正直まったく覚えていないけれど、言ったかもしれない。きっと言ったんだろう。そういうことは、陸本人よりも一織のほうがよほどよく覚えている。
「それとも、なんですか。やきもちですか?」
 ふふん、とでも言いたそうな得意げな顔で、一織が言った。さっきの陸の言葉のままだ。きっと、うまく言い返してやったと思っているのだろう。
 悔しい。こうなったらなりふり構っていられない。そんな気持ちがふつふつと湧きあがってきた。
陸は作戦を変更した。
「そうだよって言ったらどうする?」
「は?」
 なるべくしょんぼりとした様子に見えるように眉を下げ、陸は一織の目を見つめた。ぱちぱちとまばたきをして、一織も陸を見つめ返してくる。予想外の返事だったのだろう。
「オレ、一織が帰ってきて嬉しかったのに」
「ええと、七瀬さん?」
「せっかく一織と一緒にいられると思って、嬉しかったのに。一織は違うの?」
 見つめ合ったままにじり寄ると、思わずというように一織が体を引いた。
「だから、そういうこと、他の誰にでも……」
「そんなわけない。わかってるだろ?」
 言葉を詰まらせ、ついに一織は陸から目をそらした。しめしめ、と思う。効いているようだ。
あとひと押しだ、とばかりに、陸はラグの上にある一織の手を握った。一織の肩がびくっと跳ねる。
「今はオレのこと考えてよ」
 これでどうだ。
 一織がちらっと陸を見た。何かを言おうとするようにくちびるが開いて、けれど結局言葉は出ずにまた閉じた。一瞬だけ合った視線はすぐに外されて、一織は重なった手をじっと見つめている。
 長いまつげが影を落としている頬が、じわじわと赤らんでいくのがわかった。肌が白いから、その様子はよく目立つ。それに気づいて、陸も途端に恥ずかしくなった。
 その場の勢いといえども、ちょっと恥ずかしすぎることを言ってしまったかもしれない。いや、だいぶ恥ずかしいことを言ってしまったのではないだろうか。
 意識をすると、握っている手のことも急に気になってきた。熱い。ひょっとしたら、合わさった部分は汗をかいているかもしれない。
 なんてね、とでも言って、手を離してしまえばいい。そうすれば、からかわれたと思った一織がいつものように怒って終わりだろう。そうしようと思えばできたのに、なぜかくっついてしまったかのように、ふたつの手は離れずにいる。
「……言われなくても」
 とてつもなく長く感じられた沈黙のあと、ささやくような声で一織が言った。
「言われなくても、考えてます。いつも」
 伏せられていたまぶたが上がって、一織が陸を睨む。頬だけではなくて目元も耳も赤くなっているから、全然怖くない。怖くないのに、心臓がどきっとした。
「一織、」
「知ってるくせに」
 ひどい、という言葉に重なるように、うるさいぐらいに鼓動が打ち始めた。頭がぐらぐらとする。
 怒っているような、それでいてなぜか泣きそうにも見える表情は、今まで見たことがないものだった。他の誰の前でも、こんな顔をしている一織は見たことがない。この顔をさせているのが自分だと思うと、いてもたってもいられないような気がした。
「一織」
 もう一度、名前を呼んだ。返事はなかったけれど、一織は陸を見つめたまま、ぎゅっと手を握り返した。
 それで完全に、おかしくなってしまった。もう片方の手で肩を引き寄せ、顔を近づける。何をされるのかわかった一織が体を硬くしたのを感じたけれど、拒まれはしなかった。押しつけるように、くちびるを合わせる。ただやわらかいだけで、何も味はしなかった。
 少し顔を離して、一織を見た。閉じていたまぶたがうっすらと開いて、ふたたび目が合う。顔が熱い。
「……いい?」
「……いいもなにも、もうしたじゃないですか」
「うん」
 憎まれ口とはうらはらに、今度は一織から口づけられた。その背に手を回し、ぐっと抱きしめる。ん、というかすかな声が一織から漏れて、血が上った頭で、もうだめだ、と思う。
 その瞬間、インターフォンが鳴った。
陸は心臓が飛び出しそうなほど驚いた。一織も同じだったようで、弾かれたように体が離れた。しばらく無言で見つめ合う。一織の顔は真っ赤だ。息を止めていたのか、呼吸が上がっているのがわかる。見ていられなくなって、陸は目をそらした。またインターフォンが鳴らされる。それどころではないのに。
 しかたなく、誰だろうね、と言いかけたとき、突然一織がわー! と叫んだ。ふたたび陸は心臓が止まりそうになる。
「なに、えっ、どうしたの?」
「私が出ます! あなたは出てこないで!」
「えっ、あ、一織?」
 その顔で? と言う間もなく、一織が部屋を飛び出す。止める暇もなかった。
 聞き耳を立ててみると、どうやらインターフォンを鳴らしたのは三月だったようだ。噂をすれば、という慣用句が思い浮かんだが、いくらなんでも間が悪かった。なぜか申し訳ないような後ろめたいような気持ちになっていると、鍵を持って出るのを忘れた、と話しているのが漏れ聞こえてきた。案の定、顔が赤いけど熱でもあるのか、と訊かれていて、部屋にいる陸までどういう顔をしたらいいのかわからなくなる。
 クッションに顔をうずめ、ラグの上に倒れ込んだ。一織がいたら、埃が、とまた怒られたことだろう。
 今のはなんだったんだろう。今まで知らなかった自分の中の欲望を見た気がした。自分は、一織のことをそういう目で見ていたのだろうか。わからない。わからないが、またしたらわかるのかもしれない、とさえ思っている。また、自分のことであんな顔をしている一織が見たい。陸以外の誰の前でも、あんな顔を見せてほしくはない。
 自分のくちびるに指で触れる。世界が変わるのはこんなにも簡単だ。自分と一織の他には誰も知らない。早く、一織が戻ってくればいいのに。
 そこにまだ残る感触を思い起こしながら、陸はクッションをぎゅっと抱きしめた。

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