目は口ほどに

 また陸がおかしなことを始めた。
「……なんですか?」
「うん? わかんない?」
「ええ、まったく」
 そんなにじいっと見つめないでほしい。見つめ返しながら、まるで穴が開きそうだ、と一織は思う。
想像する。陸の強いまなざしに射抜かれる自分のことを。冗談じゃないと思うのに、なぜか甘美にも感じられる想像だ。
陸は、一織を見つめている。


 今日の仕事は、朝から晩まで陸とは別々だった。一織が起きたときにはもう既に陸は早朝の生放送の出演のために寮を出ていたし、一織は一織で学校が終わった後、ぎりぎりの時間までひとりで出演しているラジオの打ち合わせと収録があった。それを終えて帰宅したのが先ほどだ。
 そして、ちょうど寝る支度を整えたらしい陸と鉢合わせたというわけだった。
「あ、一織、おかえり。お疲れ」
「ただいま戻りました」
 なんか久しぶりな感じ、と陸が笑う。お互いに個人の仕事はそこそこあるにしろ、同じグループで、しかもその中での組み合わせとしても一織は陸と組むことが多い。ドラマなどの撮影がよほど立て込んでいない限り、一日顔を合わせないことはめったになかった。
「遅かったんだな。ご飯食べた?」
「食べてきましたよ。七瀬さんは? もう休むところだったんじゃないんですか?」
「うん。でも今朝早かったから、夕方ちょっと寝ちゃって。だからあんまり眠くない」
 だからか、と陸の手にあるマグカップを見て思った。おおかた夕方ごろに長すぎる昼寝をしてしまったせいで眠れず、何か飲もうとしていたところなのだろう。カップの中にはお茶らしき液体が半分ほど入っている。眠れなくなりますよ、と言うと、麦茶! という答えが返ってきた。
「明日も仕事ですよね? 横になるだけでもいいので、早く休んでください」
「わかってるって。今日、ラジオ?」
「そうです」
「一織のラジオ、オレも久しぶりに出たいなぁ」
「ええ、そのうちに。あなたは? 昼も生放送でしたよね?」
 確かに、陸のゲストは久しくない。このところは外部の番組へのゲストばかりであったし、自分のラジオに呼ぶのもいいかもしれない。次の打ち合わせのときに提案しよう、リリースに合わせて……とつらつらと考え始めたとき、あっと声を上げた陸に腕を取られた。
「そう、一織、ちょっと来て!」
「は?」
 あれよあれよという間に、廊下から陸の部屋に引っ張り込まれた。クッションの上に座らされ、同じように座った陸が一織の顔を覗き込んでくる。
なんなんだ、一体。当然そう尋ねたが、返事はいいから見て、というものだった。
「見る? なにを」
「オレの目! どう?」
「どうって……」
 特に何の変哲もない、いつも通りの陸の顔だ。ぱっちりとした二重まぶたの線を視線でたどる。ぱち、と瞬きをした拍子に、濃いまつげが目を惹いた。
「なんなんですか、本当に」
「ほら、目は口ほどに物を言うって」
「言いますね、たしかに」
「だからさ、オレの考えてることわかる?」
 いったい、今度は何に影響されたのだろう。陸の大きな目を見つめながら、一織は考えた。
「なんの話ですか?」
「今日、番組に手品? 読心術? の人がいて、すごいんだよ、ほんとにずばずば当てちゃうんだ。びっくりした!」
「七瀬さんも当てられたんですか?」
「うん。オレってわかりやすいのかな?」
「まあ、わかりにくくはないでしょうね」
「そう? そうかなあ」
 こんなにまじまじと目を見たことは初めてかもしれない。夜だからか、瞳は記憶よりも大きくひらいていて、そこに部屋の照明が入って、きらきらと光って見えた。
 何色と言えばいいのか、陸の目は不思議な色だ。深く赤みがかった中に、いろんな色彩が見える。目の形自体が丸く大きいせいか愛らしい印象が強いが、じっと見つめていると、妙に大人びているというか、老成したような雰囲気もある。
 不思議な人だ。単純なようでそうでもなく、かと思えば驚くほどに明快な思考回路であったりする。まあまあ長い付き合いになってきたけれど、それでも一織は陸のことがよくわからない。目を見ればわかるだろうというのはかなりの無理難題だ。
「七瀬さんの考えてること、と言われても。漠然としすぎていませんか?」
「そうかなぁ。なんでもいいからさ、言ってみてよ」
 見ることに集中しているせいか、陸の瞬きは少ない。目は口ほどに物を言うというのなら、一織の目を覗き込んでいる陸も同じではないのだろうか、と思う。一織の考えていることが、陸にはわかるのだろうか。
 ねえ、と急かされた。ううん、と考えるふりをしながら、一織は少しおかしくなってきた。
「そうですね。明日の朝ご飯はなんだろう、とかですか?」
「うーん、はずれ! オレ、そんなお腹空いてそう?」
「そういうわけじゃないですけど。ちなみに、明日の朝食は私が作りますよ」
「え、そうだっけ? 何作るの?」
「秘密です」
「なんだよそれ」
 ご飯かな、パンでもいいかな、と陸はのんきに言う。視線はまだ逸れない。
「これ、まだやるんですか?」
「もちろん」
「今日の仕事は疲れたな、とか」
「ちょっとは疲れたけど、寝たから今は元気!」
「夜なのに元気いっぱいでどうするんですか。寝るんですよ」
「わかってるってば。はずれ!」
「今日あったいいことの話ですか? たとえば、誰かに褒められたとか。何か楽しかったとか」
「うーん、ちょっと近くなったかな……ていうか、今思ってることだよ? なんか、根本的に違う気がする」
「そうなんですか? 難しいですね」
「そう? もっと簡単に考えてよ」
「七瀬さんの言う簡単は難しいんですよ」
「そうかなあ? 一織が難しく考えすぎじゃない?」
 簡単に、と言われたので、それからしばらく思いつくままに陸が考えそうなことを挙げていった。それに陸は首を振ったり惜しいと言ったりしたけれど、いまひとつ法則性がわからない。
「昨日四葉さんの王様プリンを食べたのは、実は二階堂さんではなくて七瀬さんだったとか」
「違うし! 一織、だんだん適当になってない?」
「なってないですよ。失礼な」
 一織が面白がっているのが伝わったのか、陸は不満げに口を尖らせた。表情だけは真面目を保って、一織は陸の目を見続けている。初めは気まずいような妙な気持ちだったが、だんだん慣れてきた。
 いい加減思いつかなくなってきたから、もう寝ましょう、と切り上げてもよかった。そうしなかったのは、確かに陸が言うように、妙に久しぶりな気がしたからかもしれない。
 たった一日足らず顔を見なかっただけなのに。そう思うと、一織の生活にいかに陸が入り込んでしまっているか。
 いや、逆かもしれない。陸の生活に、一織が組み込まれてしまっているのかもしれなかった。
 もっというなら、陸の人生に。
 それは良いことなのだろうか。一日の終わり、自覚はないがきっと朝や昼間よりも少し疲れているであろう頭の中で、思考はゆるやかに流れていく。
 たしかに、自分はこの人の人生に深く関わることを決めてしまった。陸がステージに立つ、その限り。
 けれど、こうして改めて考えてみると、それはとんでもないことのようにも思える。今はふたりして疑いもなく過ごしているが、こんな日々がずっと続くのだろうか。そんなことはあり得るのだろうか。不安というより、単純な疑問だった。
 一織はまだ十七年しか生きていない。陸にしても、それよりたった一年余分に生きているだけだ。この先、何かが変わらない保証など、どこにもない。
 どこにもないのに、こうして陸の目を見ていると、まったくそういう疑いがなくなる。不思議だった。
「もうおしまい?」
 黙ってしまった一織に焦れたのか、陸が尋ねた。
「そうですね。降参です」
「やった、一織に勝った!」
 いつからそういう勝負になっていたのだろう、と思ったが、すぐにどうでもいいかと思い直した。言葉遊びのようなものなのだ。
「降参したら、教えてもらえるんですか?」
「うん。あのね、」
 答え合わせをするようにもったいぶった口調で陸は言う。ふと思い立ち、そうだ、とその言葉を遮った。
「目は口ほどに物を言うんですよね? じゃあ、私の考えていることはどうですか? さっきから、七瀬さんは私の目をずっと見てるわけですし」
「ええ?」
「私だけ、というのはフェアじゃないでしょう」
「えー?」
 口に出すと名案のような気がして、一織は陸にそう迫った。
 実際、今この瞬間に、はっきりと言葉にできるような明確な何かについて考えているわけではない。言葉になるようなならないような、あいまいな思考がふわふわと漂っているだけだ。
 それでも、聞いてみたかった。自分は、陸にはどう見えているのだろう。
 さっきまでの様子はどこへやら、ええ、と陸は困ったように言って、一織の目を覗き込んだ。陸に比べると全体的に暗い色の一織の瞳は、陸にはどんなふうに見えているだろう。確かにこれは、ちょっと楽しいかもしれない。
 ぱちぱちと瞬きをして、陸がさっきまでとは違う様子で一織の目を見る。見透かすような、探るような視線だ。
 しばらく、じっとそうした後、わかった、と陸は言った。
「へえ、なんですか?」
「オレのこと」
「七瀬さんの?」
 そう、と自信たっぷりに、陸はうなずいた。
「オレのこと。一織、オレのこと、好きだし」
 あまりに得意げに言われたので、うっかり「そうですよ」と返しそうになった。すんでのところで口をつぐむ。視線が泳ぎかけて、ぐっとまぶたに力を入れた。どういう意味だろう。どう返事をするのが正解だろう、と考える。
「正解?」
 まるい目が無邪気に弧を描く。思わず声がもれそうになって、ふたたび口をつぐんだ。これは陸の手なのだ。自覚しているにしろしていないにしろ、子どものような愛らしさをまとって、一織の感情を好き勝手にゆさぶる。その腹の中には、年相応のしたたかさやずるさがあるのに。
 陸の本意を読み取ろうと、さっきまでと同じようにその瞳を見つめた。つるりとまるい眼球は、吸い込まれそうな、という表現がぴったりだ。
 今ここで一織がうなずいたら、この目はどんな色を帯びるのだろう。浮かんだ疑問が衝動に変わったのは一瞬だった。見たい。もっと近くで、よく見たい。
「……正解です」
 ほとんど考えもせずに言葉が落ちた。スローモーションのように、陸がゆっくりと瞬きをする。まつげが伏せられ、そしてまた持ち上がる。思わず、一織は大きく息を吸い込んだ。
「教えてあげる」
 一織を見つめたまま、陸がささやく。
「オレも、一織のこと考えてたよ」
 見たいと望んだのは一織のはずなのに、とても見ていられない。今度こそ泳いだ視線を、一織、と陸は咎めた。たったひとこと、その声だけで、一織は簡単に捕らわれてしまう。
 おそるおそる見つめ返した瞳は、燃えるようにくっきりと際立っていた。言葉はないのに、どんな言葉よりも雄弁な色だ。
 たくさんの陸を見てきた。でも、この陸はまだ知らない。これから、知ることになるのかもしれない。未知の予感に、一織は震えた。それが知らない世界への期待なのか、恐れなのか、自分でもわからなかった。
 一織は、陸を見つめている。

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