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 カレンダーアプリの表示をなぞって、しまった、と一織は思う。選択された今日の日付がピンク色に変わって、そこからさらに指を滑らせた。三日間。赤い文字で記されている陸のスケジュールは『地方ロケ』。
 昨日、そんなこと一言も言っていなかったのに。
 グループでの共有スケジュールとは別に、一織は個人的に三月と陸のカレンダーを共有していた。寮を出てからの習慣だ。自分と陸は同じ階、三月は別フロアーでこそあるが同じマンションに住んでいるので、その方が何かと都合が良いと始まったことだった。毎日見ていたはずの予定なのに思い当たらなかった自分も自分だが、陸も陸だ。無意識に、はあ、とついたため息を耳ざとく聞きつけたのか、隣の紡が手帳から目を上げた。
「お疲れですか? 最近、また忙しいですもんね」
「いえ、そういうわけでは」
「休んでいて大丈夫ですよ。着いたら起こしますから」
「あなたこそ、車の中で手帳を見ていたら酔いませんか?」
 タクシーの中だというのに、さっきからせっせとなにやら書きつけていた様子だった紡は、一織の指摘にわずかに目元を緩め、笑った。
「さっきの打ち合わせのこと、忘れないうちにと思って。大丈夫です」
 紡が一織の仕事に同席するのは久しぶりだった。メンバーやアイドリッシュセブンにまつわるだいたいのことは、一織も紡同様に共通認識として把握している。だから、言葉を選ばずに言えば、紡はほかのメンバーに付いたほうが効率が良いからだ。そして、それはほとんどの場合、陸だった。
 ポン、と紡の携帯から通知音が鳴った。すみません、と紡は断り、開いた手帳の上でスマートフォンを開く。
「陸さんですね。ロケ先に無事に着いたみたいです」
 あまりにもタイムリーだった。



 あれは夢だったのかもしれない、と思う気持ちと、夢にしてはあまりにもリアルだったのでやはり現実なのかもしれないと思う気持ちが、実際のところ七対三ぐらいだ。
 昨晩のことだった。
 やっと帰宅し、手を洗ったところだった一織は、そのインターフォンに耳を疑った。もう日付も変わっている。いくら不規則な仕事といえども、こんな時間から誰かが来る予定はなかった。階下からのインターフォンは鳴らなかったから、部屋を間違えているのかもしれない。そう考えているうち、ピンポーン、という音が再び鳴り響く。
 慌てて手を拭き、リビングに入る。暗い中、手探りでモニターのボタンを押し、思わず声が出た。
「七瀬さん?」
そこに映りこんでいたのは、陸だった。
『開けて』
 まっすぐにカメラを見て、陸が言った。スピーカーからのざらついた声は、まるで陸のものではないかのようだった。
 こんな時間に、いったいなんだろう。一織は急いで玄関に取って返し、かけたばかりのチェーンを外した。
 ドアを開ける。やはり、そこに立っていたのは陸だった。
「どうしたんですか、こんな時間に」
 しかも、見ればパジャマに上着を羽織っただけという姿だ。乱れている髪の毛も、いかにもさっきまで寝ていたという様子だった。体調でも悪いのか、と一瞬肝を冷やしたが、どうもそういう様子でもない。
 いつもなら、ドアを開けると招くまでもなくすぐに玄関に入ってくる陸は、妙に仏頂面のまま、廊下に立っていた。まるで睨むようにドアホンのカメラを見ていた目は、今は伏し目がちに、一織の胸元のあたりを見ている。
「ごめん」
「いえ、とにかく入ってください」
 夜はまだ冷える。促すと、陸は大人しくドアの中に入った。スニーカーを脱いだ足は裸足だ。黙って陸のスリッパを出すと、陸も黙ったままそれに履き替えた。もともと互いの家の行き来が多いから、この家にはだいたいのものが陸のために揃っている。
「ほら、ソファーに座っていてください。私も今帰宅したばかりなんです。寒くないですか? エアコンを」
 入れますね、と最後まで言う前に、陸が背後からぎゅっと抱き付いてきた。予想外の行動に、リビングの手前でそろって転びそうになる。それをなんとか踏みとどまって、ついでに反射のように出そうになった声もこらえ、一織は腹の前に回された陸の腕にそっと触れた。
 揉めていれば必ず誰かが仲裁に入ってくれた寮のころとは違う。そう気づいたのは、このマンションで暮らし始めてからしばらくしてのころだった。陸とは今は一緒に暮らしているわけではないが、仕事も含め、ふたりでいる時間は他のメンバーと比較しても格段に多い。その分、喧嘩や言い合いも多かった。
 それは寮暮らしのときからだったが、あのころは他にもメンバーがいた。今思えば、陸と一織が妙な空気になっていても誰かがさりげなく気を使ってくれたり、逆に強引に仲直りをさせてくれたりしていたのだ。
 でも、今は違う。どちらかが機嫌を損ね、悪くなった空気を修復できるのは自分たちしかいない。陸はそもそもそこまで気にする方ではないし、陸の機嫌など直るまで放っておけばいい、と初めのころは思っていたが、しばらくして一織はその考えを改めた。
 どちらかの機嫌が悪い時間が続くと、ふたりでいることがストレスになる。陸は嘘がつけないから、仕事でも気を使うことが増える。ただでさえ多忙なのに、近しい人間との関係にまで気を揉むのは非効率的だ。
 他にもいろいろと理由を巡らせたが、単純に、ずっと一緒にいるのならばなるべく楽しい方が良い、というのが一番大きいかもしれない。仕事をしている限り、ずっと陸といることはもう決まっている。それなら多少気を使うことが増えたとしても、互いに機嫌良くいられる方を取ったほうが良い。
 陸の腕は緩む気配がない。肩のあたりに額が擦りつけられて、まるで犬に懐かれているようだな、と思った。いつまでもここで抱えられているわけにもいかないので、今度は少し強めに陸の腕をたたく。わずかに力が抜けたところで、その手を握った。
「一織」
「はい。大丈夫ですよ。ソファーに行きましょう」
 そのまま手を引くと、思ったよりもあっさりと陸は体を離した。まだ灯りもつけていなかったリビングはやはりひんやりとしている。シーリングライトとエアコンのスイッチを入れ、ようやく一織はほっと息をついた。
「お茶を淹れますね」
「ううん、いらない」
「私も飲みたいので。すぐ戻りますから」
 陸をソファーに座らせ、電気ケトルに水を入れる。しばらく考えて、デカフェのティーバッグの箱を手に取った。白のティーポットに沸いた湯を半分ほど注ぎ、何度か回してからシンクに流す。ティーバッグふたつをそこへ放り込んで、今度はポットの八分目ほどまで湯を入れた。
 決まりきった手順をなぞっているうち、疲れた頭がやっと回り始める。陸と自分のマグカップをカウンターに用意し、そこへ紅茶を順番に注いだ。間でちらりと目をやると、陸は大人しくソファーにもたれ、いつも置いてあるチェック柄のブランケットを肩にかけていた。
 何かあったのだろうけれど、深刻なものではないらしい。そう予想して、マグカップを手に、一織はリビングに戻った。
「どうぞ」
「ありがと」
 紅茶? と訊かれたのに、デカフェだと答える。フレーバーのマスカットがふわりと香った。
 隣に座った一織に、陸がブランケットを被せてくる。大きい物なのでふたりで被れなくはないが、わりと窮屈だ。いつもならばいいです、と言うところだが、今日は陸の好きにさせておく。
 テレビをつけるのもスマートフォンの画面を開くのもためらわれ、もたれかかってくる体重を感じながら、一織は手持ち無沙汰にマグカップを口元に運んだ。陸は黙っている。そのうち何か言うだろう、と思い、一織も黙っていた。
 エアコンの音と、陸の呼吸に合わせかすかに上下する体と、触れた体温と手の中のカップの温度。それらがなじみすぎて、だんだんと眠気に襲われてきた。今朝は比較的早かったし、間が空いたためいったん戻ってからまた夜は仕事といったふうで、疲れていたのもある。
 うと、とまどろみかけたタイミングで、陸が一織のマグカップを取り上げた。は、と目を開く。
「……こぼしちゃうよ」
「寝そうでした」
「ごめん。一織も疲れてるのに」
「だから、いいですよ。でも、いったいどうしたんですか? そろそろ教えてくれませんか」
 笑わない? と言われたので、状況によっては、と正直に答えると陸はむくれた。むくれたまま、今度は正面から一織に抱き付いてくる。いまさら別に構わないけれど、こちらのことを抱き枕か何かだと思っているんじゃないかと思う。
 一織が、と陸は小さい声で言った。
「いなくなっちゃうんだ」
「は?」
「オレは、一織のこと、一生懸命探すんだけど」
「ええ」
「でもいなくて。どこにも。どうして?」
「……全然わからないですね。何の話です?」
 どうしようか迷って、結局陸の腰に手を回した。背中に回された陸の腕に、わずかに力がこもった。
「夢」
「はあ、夢」
 そんなことだろうと思った。身体から力を抜くと、笑わないで! と陸の声が飛んできた。
「笑ってませんよ。それで、どうなったんです?」
「それでおしまい」
「オチはないんですね」
「……すっごく怖かった」
「……それは、」
 すみませんと言うのも違う気がする。なんせ、夢の話なのだ。怖かったですね、と言うと、陸はうなずいた。
 陸は誰かに置いていかれるのを、まるで子どものように恐れているところがある。天のことがあったからだろうか。今は和解したといっても、あの頃の七瀬陸が、まだ彼の中にはそのまま存在しているのかもしれない。すっかり落ち着いたように見えても難しいものだな、と一織は考える。
 そういう部分は、誰にでもあるのかもしれない。子どものころ、傷ついた自分。自分であって自分ではないような存在が、こうしてときどき思い出したように顔を覗かせる。ほんの些細なきっかけで。
「どこにも行かないで」
「どこにも行きませんよ。ずっとここにいます」
「本当?」
「本当です」
 だから、一織は何度でも繰り返すしかない。
 ようやく陸の身体からも力が抜けた。こんな簡単なこと、何度でも言うのに。
「ごめんね、こんな遅くに」
「いいですよ。明日はそんなに早くないですから。それよりあなたこそ、もう休まないと」
「うん」
 陸は大きく息を吐いて、ふたたび一織を抱く腕に力を入れた。今度は甘えたような様子だ。
「一緒に寝てもいい?」
「こっちに泊まりますか? いいですよ。ベッド、使ってください」
 たしか、自室のベッドは昨日シーツを代えたばかりだ。陸は今更気にもしないだろうけれど、一織は多少は気にする。部屋に陸を寝かせて、自分もさっさと寝支度を整えて、と頭の中で考えていると、じゃなくて、と陸は言った。
「一緒に寝ようよ」
「は? 同じベッドでということですか?」
「うん。一織のベッド広いし。大丈夫だよ」
「それは……どうですかね」
「だめ?」
「だめ、というよりも、なんでですか?」
 わざわざ狭苦しい思いをしなくても、いつも通りに片方がベッド、片方がソファーで良いのではないだろうか。ソファーといっても、これは引き出すとベッドになるタイプのものだ。家まで歩いて数十秒なのに、たびたび陸が泊まっていくから、とわざわざ購入した。一織は人と同じベッドでは眠れないというたちではないが、あえて一緒に寝たいと思うわけでもない。
「さみしいから」
「はあ」
 首元に顔を埋めている陸の表情はわからない。陸の本意をはかりかねて、一織は逡巡した。
「あと、また夢見たら、やだし」
「……じゃあ、今夜だけ。でも、早く寝てくださいよ」
「うん」
 結局のところ、自分は陸に甘い。そう思ってはいるが、うなずくしかなかった。


 早くね、と急かされて、勝手なものだと思いながら手早くシャワーを済ませ、そっと自室へ入る。
 もう眠っているか、と思ったが、ベッドの陸は起きていた。一織が入って来たのに気づき、新書から顔を上げる。サイドテーブルのデスクライトの灯りが、やわらかくその頬を照らし出した。
「目、悪くなりますよ」
 読んでいたのは、一織が読みかけているビジネス書だった。陸がその手の読み物を読むのは珍しい。
「スマホ忘れちゃったから。ごめん、勝手に見てた」
「それはいいですけど。大丈夫なんですか?」
「うん。どっちみち、朝着替えに帰るし。何かあったら一織に連絡来るし。アラームだけかけて」
 何時ですか、と尋ねると、六時と返ってくる。
「ほんとに早いじゃないですか。起きられます?」
「寝たのは早かったんだってば。目が覚めただけで」
「さっさと寝ますよ」
 はあい、と良い子の返事をして、陸はいそいそと壁際に体を寄せ、一織を招き入れる。
「あなたの方が早いですよね? 逆のほうが良いのでは?」
「あ、そっか」
「落ちないでくださいよ」
「落ちないし!」
 口を尖らせた陸を無視して、その体をまたぐ。ひとりでなら十分すぎるほど広いベッドも、さすがに自分とほぼ同じ体格の人間がもうひとり寝ると普通に狭い。
「ほら、もう暗くしてください。寝ましょう」
「うん」
 しばらくごそごそとする様子の後で、部屋の灯りが落とされる。一織はようやくほっと一息ついた。陸の来訪に、やはり少し動揺していたのかもしれなかった。
 おやすみと言い合って、まもなく眠気が襲ってくる。寝付けないかも、という心配は杞憂だったようだ。一織にとって、陸の気配が隣にあるのは想像以上に安心できるようで、自分でも少し意外だった。
「ねえ、一織」
 そんなことを考えるともなく考えながら、うとうとと意識を手放しかけていたところで、陸の声にはっと呼び戻される。
「あ、ごめん、寝てた?」
「……寝ますよと言ったでしょう」
 むにゃむにゃとした声になってしまったかもしれない。言葉に反してそれほど悪いとも思っていなさそうな声音で、眉間に皺が寄ったのがわかった。
「もう、いいから、寝てください」
「うん、寝る。寝るから、もうちょっとそっち行くね」
「は?」
 いいとも悪いとも言う前に、陸がこちらへにじり寄ってきた。腕と腕とが触れる。すぐ隣は壁だ。狭い。
「せまいんです、けど」
「うん。大丈夫。もっとこっち来たら?」
「はあ」
 よくわからないが、言われるがままに陸の方へ体を寄せた。狭い。なにも、まったく改善されていない。ふたたび狭い、と訴えようとしたら、陸の腕が首の下に差し入れられた。枕にするには硬い。
「あの、狭いんですけど」
「うん」
「寝にくいですし。もう眠いんです」
 今度こそ、途中で言葉が不明瞭になった。眠い。もう眠らせてほしい。
「うん。だから、こっち向いて」
「はあ……」
 のそのそと陸の方を向く。暗い中で、陸の表情は思ったよりもよく見える。陸は真顔だった。半分眠ったような意識のせいか、珍しく陸が何を考えているのかわからない。
 向かい合ってみると、微妙な体と体の間の隙間から外気が忍び込むのか、すうすうと寒かった。さむい、と呟く。陸がうん、とうなずいて、体を摺り寄せてきた。微妙な隙間はすぐに埋まって、不思議に思う間もなく抱きしめられていた。風呂上がりの自分とかわらないか、それよりも高いほどの体温がぴったりと寄り添う。
 一織、と陸がささやく。首筋に感じる呼吸がくすぐったい。思わず首をすくめる。それが伝わったのか、陸はわずかに顔を上げたようだった。
 頬と頬が触れる。
「どこにも行かないで」
 続けて、好き、と吹き込まれたのは耳元で、なお悪かった。ひ、とも、ふぁ、ともつかない声が漏れる。先ほどまでが嘘のように暑い。それが自分のせいか陸のせいなのか、よくわからなかった。
 陸の腕に、わずかに力がこもる。それは感じたのに、もう目を開けていられなかった。




「好きって、どういう意味でしょうか」
「はっ?」
 紡の素っ頓狂な声で、一織は我に返った。しまった。声に出ていたらしい。ラビチャのトーク画面を開いたまま、紡は一織の顔を見つめ、固まっていた。驚きと怪訝の色が同じぐらいの割合で混ざり合った、複雑な表情だった。
「あの、それは、誰が誰をですか? 一織さんがですか?」
「いえ、あの、ひとりごとです」
「ひとりごと……?」
「もしくは一般論です」
「一般論……?」
 おうむ返しにされ、なるべく神妙な顔でうなずいた。なぜか紡もうなずき返してくる。突如、は、と何かに気づいたような顔をされ、悪い予感がした。
「あのう、一織さん、まさかお付き合いする方ができたんですか……?」
「違います」
「あっ、すみません、できそうなんですね?」
「違います」
「あの、大丈夫です、もちろん立場上難しい問題ではあるかと思うんですが、私も皆さんに理不尽な不自由を強いるつもりはありませんので、こう、どうにか、なんとか!」
「違いますと言っているでしょう。話を聞いてください」
「では一体……?」
 ひとりごとですし一般論です、と繰り返す。
「なるほど……?」
「もういいですから。七瀬さんはなんと?」
「ああ、いえ、特には。着いた連絡だけです。多分、私が心配してたからだと思います」
「あなたが東京を離れるわけにはいきませんから、仕方ないでしょう」
「そうなんですけどね」
 紡が苦笑した。なんとなく、一織もその意味がわかる。陸は放っておけないのだ。良くも悪くも、目が離せない。そう思っている人間は紡や一織だけではなく、日本中にそれこそごまんといることだろう。
 今朝、一織が目を覚ますと、陸はもう部屋を出た後だった。一織のスマートフォンに何も連絡がなかったところを見ると、きちんと六時に起きられたらしい。
 キッチンに洗い上げられていたふたつのマグカップと、ソファーに忘れられた陸の上着が、昨晩の来訪が夢ではないことを示していた。
 あの、ベッドでの様子はいったいなんだったのか。あれは夢か、それとも現実だったのか。思い出すごとによくわからなくなった。
 陸はすぐ、好きだとか大好きだとか、そういうことを簡単に言う。昔は気恥ずかしさこそあったが、それを特に深く受け止めたことはなかった。
 けれど、昨日のことがもし現実だとしたら、また意味が違うような気がする。一織にはよくわからないが。
 よくわからないのだ。わからないので、寝起きの頭のまま、とりあえず辞書のアプリで「好き」という単語を調べてみた。
『心がひかれること。気に入ること。また、そのさま』
 なるほど確かに、そういう意味では一織は陸のことを好きだと思う。歌や声、ステージといったパフォーマンスはもちろん、人好きのする顔立ちや明るく人懐っこい性格も好ましいと感じている自覚はある。
 かといって、陸が一織を好きなのかと考えてみると、よくわからないのだった。
 気に入られていると感じたことはあまりない。いちいちうるさいことを言うところはきっと疎まれているだろうし、陸の大して意味のなさそうな「好き」にもかわいげがある返しをしたことなどなかった。対象をメンバーに限って考えたとしても、自分よりもよほど陸と仲が良く、陸から気に入られている者ばかりだと思う。
 混乱したので、次は「好きな人 とは」と検索してみた。すぐに表示されたのは山のような恋愛相談ばかりで目が回りそうになった。一織には縁がない内容ばかりだ。
 ふたたび辞書に戻り「恋愛」「親愛」「友愛」「性愛」まで調べたところで正気を取り戻しやめた。陸はいちいち一織の枠を飛び越えてくる人間なので、ひとりで考えたところで無意味だ。
 ぼんやりと今朝のことを思い返していると、ああ、と紡が声を上げた。
「なるほど、先ほどの打ち合わせ、ドラマの件でしたもんね」
「あ、いえ」
 そういうわけでは、と否定しかけてそれも不自然かと思ってやめる。紡がそう誤解してくれたのなら都合がいい。
 今日の仕事は次の次のクールでのドラマの件で、一織にとっては少し久しぶりのドラマ出演だった。主演ではなく、三番手程度の役柄だ。少女漫画が原作で、コミカルな恋愛ドラマになる予定だという。一織はまだ原作を読めていないが、十代を中心にとても人気を博している作品らしい。
「一織さんはライバル役ですけど、中盤にかなり見せ場がありそうで楽しみですね! 王道のラブコメといった雰囲気でしたし」
「そうですね。コメディなので、うまく馴染めるか心配ですが」
「その辺りはご心配ないですよ! 今の一織さんの格好いいところは当然ですが、コミカルなところも十分生かせると思ってます!」
「コミカル……?」
「はい!」
 自分のことを面白味があると思ったことはない。思わず、一織は自分の頬を撫でた。戸惑いが伝わったのか、紡は声を上げて笑う。
「自分のことって、自分ではわからないところもたくさんありますよね。私はこのキャスティングは成功だと思います」
「そうですね。撮影が始まってもそう思っていただけるように頑張りますよ」
「ええ、楽しみです!」
 あと、と紡は続けた。
「先ほどのこと、お話をお聞きになってみるといいと思いますよ」
「え」
 ぎくっとする。紡が昨晩のことを知るわけもないのに。
うふふ、と含み笑いをして、紡は手帳を閉じた。
「共演の方やメンバーの皆さんや、どなたでもいいと思いますけど。たくさん恋愛ドラマに出ている一織さんが『好き』の意味で悩んだり迷ったりするの、すごくいいと思います。そういうところをかわいいと思うファンの方が、きっとたくさんいますよ」
「こんなこと、公の場で言わないですよ。恥ずかしい」
「そうですか?」
「当然です」
 タクシーはゆるやかにカーブを曲がる。そろそろですね、と紡は腕時計を見るのにつられて、一織も自分の手元に目をやる。デイトカレンダーの日付を見つめ、頭の中でそこに三を足した。
 なるべくなら待ちたくはない。仕事をしているうち、いつの間にかその日になっているといい。
陸が帰宅するまでの自分のスケジュールを思い浮かべながら、一織は車を降りる準備を始めた。




 炊飯器から、炊けたことを知らせる軽快な電子音が流れる。
 一織は手元のタブレット端末から顔を上げ、勢いをつけて立ち上がった。陸の部屋のリビングにある、通称人をだめにするクッションは本当に良くない。今のようにふたつ並べてみるとさらに良くない。立ち上がりたくなくなる。一織は、この部屋にはこれしかないから、と毎回心の中で言い訳をしながら座っている。
 後ろ髪を引かれながらキッチンへ入った。しゃもじを手に炊飯器の蓋を開ける。ふわりとケチャップとコンソメの匂いが立ちのぼった。上手く炊けたらしい。
 ケチャップライスの上下を返すように混ぜ、ふたたび蓋を閉じた。スープとサラダはもうできており、それぞれ鍋と冷蔵庫の中で出番を待っている。あとは陸の帰宅を待って、最後の仕上げをするだけだ。
 時間差でも準備が楽という理由で、各自の帰宅の時間がまちまちのときには良く作るメニューだった。今日は一織に待つ余裕があったが、遠方からの帰宅は時間がずれやすいし、疲れているだろう陸を待たせたり手伝わせたりはしたくなくて選んだものだ。
 壁の時計をちらりと見る。陸には家にいることを伝えているし、食事は帰宅してから食べると言っていたから、準備はこれで大丈夫なはずだった。
 予定の時間にはまだ少し早い。一織は少し迷って、ふたたびクッションに腰を下ろした。次はすぐに立ち上がれるようにひとつだけにする。
 陸が不在の間、なるべく陸のことを考えないようにして過ごした。そして、仕事はもちろん、普段なら断る予定にもなるべく足を運ぶようにしてみたら、今日になってなんだか妙に疲れてしまった。
 自分らしくもない。まったく、ばかばかしいことだった。いてもいなくても、結局一織は陸に振り回されている。
 またしばらく、特に意味のないネットサーフィンを続けた。すいすいとタブレットをタッチして、エンターテイメントのニュースには必ずと言っていいほど出てくるメンバーの写真を一枚ずつチェックして時間を潰した。その中には、陸の写真もいくつかあった。宣材のもの、先日発売したライブの映像のもの、どこかの囲み取材のもの。何人もの陸。
 目が疲れたような気がしてきたころ、玄関から鍵の回る音が聞こえた。目頭を揉んで、ふたたび立ち上がりがたくなり始めていたソファーから腰を上げる。
「おかえりなさい」
「あ、ただいま!」
 大きなスポーツバッグを廊下に置き、スニーカーを脱ぎながら、陸がぱっと笑った。眠っていたのか、下りた髪の片側が少し跳ねている。
「お疲れさまです。移動、大丈夫でしたか?」
「うん。ちょっと疲れたけど、まあオレは座ってるだけだし」
 バッグはそこそこの重さだ。いいよ、と言うのを制して、リビングへ運ぶ。
「ありがと。ていうか、わざわざどうしたの? ご飯作ってくれるの、オレは嬉しいけど」
「いえ、なんというか」
 ん? と首を傾げる陸に、いいから手を洗って、と促す。一織は一足先にキッチンへ向かい、スープの鍋に火をつけた。
「いいにおいする」
「ちゃんとうがいもしました?」
「したした。あー、お腹空いてきた」
「じゃあ、もう準備してしまいますね」
「一織もご飯まだ?」
「ええ、せっかくなら一緒に、と思って」
「待っててくれたんだ。ありがと」
 まだそんなに遅い時間ではないから、待っていたというほどではない。けれど無邪気にそう言う陸に、いえ、と一織は返した。こういう素直さは陸の美徳だ。
 オムライスだとわかると、陸は仕上げをやりたがった。いつものくるむものや半熟の卵をのせるものならそれでもよかったが、一織は今日、やりたいことがあった。
「えー、なになに?」
「うまくできるかわからないので、できてから見せます」
「もったいぶるなあ。じゃあ待ってるね」
 代わりにテーブルの支度を頼む。陸は食器棚の引き出しからランチョンマットを二枚、棚からグラスふたつを選び出し、冷茶のポットやスプーンとともに並べ始めた。
 それを横目に、よし、と腕まくりをすると、一織はボウルに卵を割った。一人分が卵三個と、いつもよりもだいぶ多い。割り入れた卵をよくほぐし、塩とこしょうで味付けをする。中ぐらいのフライパンを火にかけ、バターを落とした。溶けたらぐるっとフライパンを回し、卵液を一気に流しいれる。すぐに菜箸でかき混ぜ、真ん中に寄せていく。
 オムレツはここからが難しい。底が固まったら火から離して、奥に滑らせた卵を返していく。ひさしぶりなので、うまくできるだろうか。
「七瀬さん、スープの後で自分の分のご飯もよそってください。青い縁のお皿で」
「はーい」
 陸がいそいそとケチャップライスを盛る。なんとかうまく閉じた卵の上下を返し、左手で皿を受け取った。
 慎重にフライパンを返すと、きめの細かいオムレツが、ケチャップライスの上にくるりとのった。
「一織、上手!」
「よかった。成功ですね」
「すっごい上手だって! すごい」
「もうひとつ焼いてしまいますね。座ってていいですよ」
「ううん、見てる!」
 おなじように、ふたつめのオムレツを作る。カウンターの向こうからじっと見つめてくる陸の視線で失敗したらどうしよう、と思ったが、こちらもなんとか成功した。
「食べましょう。卵に火が入ってしまうので」
「うん。あ、これだとナイフがいるね」
 テーブルにつき、陸がいただきますと手を合わせた。一織も同じようにする。
 ナイフで切れ目を入れ、左右に広げると、とろりとした卵がケチャップライスの上にひろがった。わあ、と陸が歓声を上げる。
「すごい、お店みたい!」
「美味しい、と思うんですが」
「美味しいに決まってるよ!」
 半熟の卵にスプーンを差し入れる。口に運んで、うまくできていることにほっとした。テーブルの向かいで、陸もおいしい、と顔をほころばせた。
 それから、時折陸のロケの話などを聞きながら、しばらく食事に集中した。サラダもスープも簡単に作ったわりには味が良く、ふたりともおかわりをするぐらいだった。
「美味しかった。ロケ、お弁当もいいんだけど、やっぱりずっとだと飽きちゃうから」
「食事に行かなかったんですか?」
「うーん、行ってもよかったんだけど、なんか疲れちゃって」
 一織とは逆だ。それでも、自分だけではなく陸も家の食事にほっとしていることに、よかった、と思う。
 オレがするから、と陸が片づけをしてくれるのに甘え、一織はダイニングのテーブルで麦茶を飲んだ。どう切り出したものか、と悩んだが、結局ストレートに尋ねることにする。回りくどくなると、一切伝わらない可能性があるからだ。
「洗い物、ありがとうございます」
「ううん、一織はご飯作ってくれたし、これぐらい」
 どうぞ、と陸にも麦茶を勧める。ダイニングテーブルを挟んで、ふたたび陸と向かいあった。
「あの」
「ん? なんか、かしこまった話?」
「いえ、そういうわけでは」
 大した話ではないですが、とあまり意味のない前置きをする。
「七瀬さん、ロケに出る前の日、うちに来ましたよね?」
「え、うん」
 夢では、と疑いながら尋ねたというのに、陸はけろりとうなずいた。
「ごめんな、遅くに」
「いえ、それはいいんですけど。逆に、何かあるのに来ない方が困りますから」
「一織って……まあ、いいや」
「なんですか?」
「ううん。一織ってなんだかんだオレのこと好きだよなー、って思っただけ!」
 いつもの陸の軽口だ。普段なら、そんなのじゃないです、と返すが、今日はそれがためらわれる。
 本当なら、自分の手の内を先に見せるべきだろう。けれど、今の一織にはそれはとても難しいように思えた。
「七瀬さんはどうなんですか?」
 だから、とてもずるい訊き方をした。
 うん? と、陸がお茶を飲みながら一織を見る。何気ないように訊きたいが、うまくいかなさそうだ。平静を装う下で、心臓がどきどきと速く打ち始める。手の中のグラスを握りしめた。
「私のことが、好きなんですか?」
 決死の覚悟で言葉にしたのに、陸はあっさりと肯定した。
「うん。当たり前だろ」
 予想の範疇だ。それにしても、伝わらなさにめまいがした。
「いえ、そういう意味ではなくて」
「うん? どういう意味?」
「だからそれを訊いてるんです」
「なにを?」
「だから!」
 もどかしい。一織とて恥ずかしいので、できれば直接的に言わずとも察してほしいが、どうにも無理そうだ。
「は?」
「ですから、七瀬さんの言う好きはなんなんですか? 友情ですか? 親愛の意味ですか? 仲間として好きということ? それとも」
 それとも恋愛的な意味ですか、と続けたものの、焦ったせいか早口になりすぎた。果たして陸は聞き取れたのだろうか。
「意味」
 一瞬ぽかんとして、陸は繰り返した。
「ええ」
「意味。意味……?」
 一織を見つめたまま、陸はぶつぶつと繰り返す。考えてもみなかったという様子だ。意識がおろそかになったせいか、手の中のグラスが傾いで、こんなときなのに危ないと思った。思わず手を伸ばし、それを支える。
「……こぼしますよ」
「ああ、うん」
 当然のように、陸は一織にグラスを預けた。
 その様子があまりにも自然だったので、思わず一織も受け取り、お茶を足してしまう。氷はほとんど溶けていて、グラスの表面はうっすらと汗をかいている。
 何をしているのだろう。締まらないことこの上ない。
「どうぞ」
「ありがとう」
 手渡したグラスを一気に傾けて、陸はごくごくとお茶を飲み干した。テーブルの上に、とん、と音を立て、空になったグラスが置かれた。
「意味とかわかんない。一織は一織だし、好きは好きだし」
「はあ」
「好きだけど、時々めちゃくちゃ腹も立つし、鬱陶しいなあと思うこともあるし、かわいいと思ったりすごく大事だって思ったりするときもある。全部だよ」
 全部、と口の中で繰り返す。全部。
「……全然わかりません」
 うーん、と陸は首を捻った。そうしたいのはこちらの方だ、と思ったが口には出さなかった。
「意味とかないし、でも全部だし、そのどのときも一織を変わらずに好きだよ。ねえ、これじゃだめ? わかんない?」
「あんまり」
「そっかー。どうしたらわかるんだろうね?」
 呑気にそんなことを言っている陸は、一織の気持ちなど毛ほどもわかっていなさそうだった。
「……質問を変えます」
 このままでは埒が明かない。できれば言及したくなかったが、しぶしぶ一織は切り出す。
「この間、なんで、あの、あんなことしたんですか?」
「あんなこと?」
 あの、寝るとき、と口ごもると、ああ、と陸は思い出したようにうなずいた。
「この間はなんか、したかったから。嫌だった? 嫌だったらごめんね。もうしない」
「あの、嫌とかそういう話ではないんですが」
「そういう話だよ。嫌なら言って。オレ、一織が嫌なことはしたくないし」
「嫌、というか」
「嫌だった?」
「嫌、というわけでは、なかったですけど」
 嫌ではなかった、というのが恥ずかしくて、つい声が小さくなる。そもそも一織が知りたいのは、あんなふうに親密に触れてくる理由だ。わからないと言われても納得できない。なのに、あーよかった、と能天気に陸が言うので、自分が間違っているような気持ちになってきた。
「だからわかんないんだってば。全部だもん。納得できなくてもいいけど、オレはそうなんだってわかってよ」
 顔だけは当惑したような表情だが、陸の言っていることはまるで開き直りだ。納得できなくてもいいと陸は言うが、一織は全然良くない。
 そこまで考えて、そうか、と一織は気づいた。納得したいのだ。自分だけではなく、陸の感情をきちんとラベリングして、当てはめて、行動の理由を納得したい。そうしないと、きっと自分は不安なのだ。
 わからないことは不安だ。信じられない。
 それに、わからないと、いつかなにもわかっていない自分が、大切な誰かを傷つけてしまうかもしれないから。大事な人が離れていくことに、気がつかないかもしれないから。
「オレたちさ、これからもずっと一緒にいるだろ?」
 悶々と考えを巡らせていると、陸が唐突に言った。
「は?」
「一織、そう言ったよね?」
「ええ、まあ、言いました」
「だからさ、オレは一織としないことがあるほうが逆に不自然じゃない? って思うし、これからもいろいろしたくなるかもしれないけど、嫌だったら嫌って言っていいよ。それに、一織がオレにしたいことも全部やってみていいよ。嫌だったら嫌だって言うし、オレもしたいときはいいよって言うから」
「でも、したいことが噛み合わないと、嫌になりませんか? 拒否をされたら、傷つくんじゃないんですか?」
「ならない。どうなっても、絶対一織のこと嫌いにならない」
 きっぱりと、陸は言い切った。まるで遥か昔から決まっている話をしているような口ぶりだった。信じられない、と半ば呆然と一織は思う。自分の意に沿わない一織を、ずっと好きでいるなんて信じられない。
 もちろん今までだって、一織は陸のためならと、なにかとうるさいことを言ってきた。それらは誓って陸のためだと断言できるけれど、でも、嫌われても疎まれても仕方がないと思っていた。人は自分の見たいものを見たいようにしか見ないし、聞きたいことを聞きたいように言ってくれる相手が好きに決まっている。そうしない一織は、陸に好かれなくても仕方がないと思ってやってきた。
「信じられない」
 望むものを差し出せないのなら、嫌われても仕方がない。
「信じなくてもいいよ。でも嘘じゃないから」
「だって、信じられないんです」
 これは、子どもっぽいわがままだ。本当は自分と同じだけの気持ちが欲しいのに、初めからそれを諦めている。諦めているから、差し出された手を信じられない。
「一織はさ、オレがなにしたって、嫌いにならないだろ? 自分の好きな気持ちは信じられるのに、どうしてオレも同じだって思わないの?」
「だって」
 一織にとって、好きという気持ちは自分が注ぐもので、自分に向けられるものではない。途中で取り上げられるぐらいなら、初めから手に入れない方が楽だ。きっと、ずっとそう思ってやってきた。
 ねえ、と陸が言った。一織が握りしめていた手元のグラスを取り上げられ、手を握られる。絡んだ指を熱いと感じて、自分の手が冷たくなっていることに気づいた。
「オレとずっと一緒にいてくれるって。そんな約束までしてくれた一織を、どうしてオレが好きじゃないって思うの?」
「……わかりません」
「じゃあ、全部だってわかるまで言ってあげるようにする。オレは別にわからなくってもいいんだけど、一織はわかりたいんだよね? だからさ、明日も言うよ」
 だって、オレたちずっと一緒にいるんだから。
 大変な約束を、まるで当たり前のように陸は言う。信じられるまで。それは大変なことだ。でもそれを、どこかで悪くはないと思う一織もいる。
 ね、と陸が笑った。やはり、陸は一織の考える枠組みを簡単に飛び越えてくる。ずっとわからないままなのかもしれないが、もうわからないと認めて、わからない場所に収めてしまった方がいいのかもしれない。一織の中に、陸のためだけの場所を作る。
 そう考えると、少し気が楽になった。わからない陸の、なんだかわからないけれど、悪くはない感情。いつかわかるときが来たら、そのときはまたちゃんと名前をつければいい。
 うなずくと、陸が握る手に力をこめた。いつのまにか、陸の熱が移って、一織の手までが熱くなったように感じられた。

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