ベッドルームは海に似ている

 一.

 目の前に、コズミック・プロダクションの社用車がなめらかに停車した。外での待機でいい加減体が冷えかけてきていたジュンはそれにほっとして、それからすぐに怪訝に思った。運転席に、常ならばあるはずのない顔があったからだ。
 ウィンドウが下がり、険しい顔で茨が手招きをした。
「茨? なんで、」
「お疲れ様です。助手席、さっさと乗ってください」
 茨はジュンの言葉を最後まで聞くことなく、それだけを言って、視線を前方に戻す。
 多忙を極める茨がただの移動のためにわざわざ来ることなど、めったにないどころか皆無だ。疑問しか湧かないが、有無を言わせないその様子に、ジュンはおとなしく助手席に乗り込んだ。経験上、ここであれこれ言ったところで何も良いことはない。
「お疲れ様です〜、って、えっ?」
 外とは打って変わって、車内は暑いぐらいにエアコンが効いていた。その後部座席に座っていたのは日和だ。助手席を指定されたのはそういうわけか。
 日和は腕組みをし、絵に描いたような仏頂面だった。シートにもたれ、おそらく怒っているというアピールで組まれている足は、後部座席では窮屈そうなことこの上ない。
 確か、今日は日和の仕事は午前だけで、それが終わればオフだったはずだ。その日和をわざわざ伴っている理由など見当もつかないが、どうやら良い話ではないらしい。それぐらいはジュンにも察せられた。
「道中説明しますから。出ますよ」
「ぜひそうしてほしいね!」
 茨の言葉に、日和が険のある声で返す。ええ、わかっています、という茨の声も苛立ちを隠せていない。ジュンがシートベルトを締めるとほぼ同時にアクセルが踏み込まれた。
 なにか、厄介なことが起こっているようだ。背中がシートに沈むのを感じながら、ジュンは心の中でため息をついた。
 
「『お泊まり禁断愛、お相手はひとまわり年下の貴公子』……?」
「あまりにも低俗すぎるね!」
 茨に手渡された数枚のコピー用紙に踊る文字を読み上げたジュンに、日和は目を釣り上げた。
「いや、オレに怒んないでくださいよぉ。ていうか、なんですか、これ」
「明日載る記事です」
 負けず劣らず尖った声で茨が言う。続いて告げられた誌名は、いわゆるゴシップ誌寄りではあるものの、一定以上の部数の出ているものだった。Edenも一度、何かの取材で掲載されたことがあったと思う。
「なんでまた、そんなもんに」
「こっちが訊きたいね!」
「こっちが訊きたいですよ」
 きれいに声が重なった。思わず茨の顔を見る。眉間に皺を寄せているものの、視線は前に固定されたままだ。仕事中の茨はかなりの安全運転なのが常だ。
「伺いもなく掲載するとだけ連絡があったんです。しかも今日。もうどうしようもありません。明日、間違いなくこれが出ます」
「そういうことが問題じゃないよね? そもそもこれ、ひとつも本当のことが書かれてないよね!?」
「あ、そうなんですねぇ。びっくりした。オレが知らなかっただけで、実はおひいさんがそんなことになってたのかと思いましたよぉ」
「そんなわけがないね! ジュンくんの馬鹿!」
「ちょっと殿下、いちいち混ぜっ返さないでくださいよ。話が進みません」
 ぎゃあぎゃあと喚く日和に、うんざりとした様子で茨は言った。ジュンは肝を冷やす。ああ、それはおひいさんをますます怒らせるだけのやつだ。
 案の定、日和は黙った。激怒している雰囲気を後部座席から感じながら、ジュンは茨に続きを促す。話が進まないのは本当だし、怒っている日和を宥めるのは時間がかかるのだ。後から機嫌を取るしかない。
 荒い写真に写っているのは確かに日和だった。眼鏡をかけているから、プライベートに違いない。服装からしてさほど前ではない、最近のものだ。
 隣に立っているのは小柄な女性だ。こちらもはっきりと顔が写っていて、先日まで日和と同じドラマで共演していた女優だった。日和を見上げ、笑顔を浮かべている。日和も微笑んでいるから、ここだけ切り取られれば親密そうに見えなくもない。
「このひと、結婚してませんでしたっけ?」
「だから禁断なんじゃないですか?」
 いかにもくだらないと思っていそうな様子で、茨が言い捨てた。
 踊る見出しをなぞる。いわく、ふたりは共演をきっかけに仲を深め、もともと女優のファンを公言していた日和が積極的にアプローチを重ねたらしい。写真に写っているのはホテル内のレストランで、ふたりは仲良さそうに食事をした後、同じ部屋に消えていったそうだ。
「……そうなんですか?」
 後部座席を振り返る。
「だから、違うって言ってるね。全部嘘だね」
 無表情の日和は、さっきとは一転し落ち着いた声だ。その様子が逆に怖い。
「とのことです。自分も念のため、殿下に確認しましたので」
「だったらなんでこんなもんが? いまどき、熱愛だって裏取るもんじゃないんですか?」
「それがわかれば苦労しません。あと、後半もちゃんと読んでください」
 言われて続きに目をやる。ジュンは知らなかったが、彼女もいわゆる良家の出であるらしい。そこから日和の生家のことにも言及されていて、しかもあまり好意的ではない内容だった。熱愛自体も日和から仕掛けたような書き方だから、このニュアンスでは略奪だと言われても仕方がない。なるほど、と思う。これは、二重にも三重にも日和の地雷を踏んでいる。
「当然、コズプロからは事実無根であると強く抗議をしています。それはそうなんですが、こういう書かれ方をしている以上、しばらく様子を見る必要があると思いまして」
「様子?」
「ええ。ひとまず、殿下のスケジュールの都合はつけました。この感じですと、いつも通り仕事としたところで煩わしいことは避けられなさそうですし」
「納得いかないね」
 醒め切った声で日和が言った。いつもならジュンがたしなめるところだが、それすらもはばかられるような声音だった。
 茨はそれに怯む様子もなく続けた。
「ええ、ええそうでしょうとも。殿下がお怒りになるのももっともです。しかし、先ほどもご説明したように仕方がないんです。ただの熱愛なら否定すれば済む話ですし、肯定したところでまあさほどどうということもないんですが、ことが不倫報道の場合は慎重に対応した方がいいでしょう。近年、この手の報道は加熱しがちですしね!」
「そもそも、きみがいるのに捏造記事が出るってどういうこと? なんにしたって、いつも先に確認が来るはずだよね? この出版社だって、コズプロを敵に回してなにかメリットがあるのかね?」
「そこなんです」
 社用車は高速道路のランプに差し掛かる。なめらかにハンドルを切りながら、茨は早口で続ける。
「そこがどうもきな臭くて。それも含めて手を回さねばと思っているところです。そのためにも、今は殿下には慎重に行動していただきたいわけですな」
「ぼくがうまくやれないと思ってるの? 誰に向かって言ってるのか、弁えた方がいいね?」
「とんでもない! 殿下の聡明さは十分に存じておりますとも!」
 ようやく、茨が口元にいつもの笑みを浮かべた。
「しかし、こんな記事が出るということは、むしろここからさらに話を広げようとしている輩がいるということです。その類にいくらこちらが誠実に対応しようとも、逆に悪手となる可能性があるのですよ」
 ふん、と日和が鼻を鳴らした。
「まったく理解できないね! ただ事実を説明すればいいだけだと思うけどね?」
 笑みを貼り付けたまま、茨は、
「それは、殿下が高貴なお人柄だから想像ができないだけですよ」
と言った。
「いくら嘘でも信じる人間が多ければ、それはまるで真実のように一人歩きし始めるものです。残念ながらね。自分は、こんなくだらないことで殿下に泥がつくことだけは避けたいのです。どのような手を使ってでも」
「……はあ、心底くだらないね!」
 大袈裟にため息をついて、日和はシートに背を預けた。車内の緊張がわずかにゆるむ。はらはらとやりとりを見守っていたジュンも、こっそりと息をついた。
「これから滞在予定のホテルまで殿下をお送りします。うちの系列でも殿下のご実家の関係のところでもまずいかと思い、全然関係ないところにしましたので。ご不便はないように準備したつもりですが、こまごましたものは後ほどジュンに届けさせます」
「えっ、オレ?」
 突然矛先が向けられ、ジュンは声を上げた。
「何か問題があります? 殿下の部屋の鍵は預かっているはずでしょう?」
「いや、そりゃそうですけど。っていうか、おひいさんはしばらくホテルに缶詰めになるってことですか? メアリはどうするんです?」
 日和の部屋にはブラッディ・メアリも一緒に住んでいる。日頃から目に入れても痛くないほどにかわいがっている彼女を、日和が放置するとは思えない。
「急遽手配した宿ですので、残念ながらブラッディ・メアリは連れて行けません。いつものペットホテルがなんとか手配できました。しばらくはメアリにはそちらで過ごしていただく予定です。その間に片をつけるつもりですが、長引きそうであればどうにか殿下と一緒に過ごせる場所を用意しましょう。ただその場合、準備できるのがどうしても自分の会社の関連になりますので、あまり望ましくないかと」
「メアリにさみしい思いをさせない以上に優先することなんてないよね?」
 後ろから日和が口を挟む。もちろんですとも! と茨は頷いた。
「何かあれば自分が責任を持ってなんとかします。しかし、確か今までもメアリはペットホテルで留守番をしていたことはありましたよね? 殿下と一緒といえども、まったく知らない環境で散歩も遊びにも行けず篭りっきりになるより、慣れたホテルで過ごす方が彼女にとっても良いと判断しました。ジュンや自分が世話をすることも考えましたけど、しばらくはばたつくでしょうし、十分なことができない可能性もありますからね」
「ああ、まあ、確かに」
 日和本人がいなくとも、メアリの世話で自分や茨が頻繁に日和の部屋に出入りしていては状況はあまり変わらないだろう。それはジュンにも理解できた。
「まあそれは他に関しても言えることなので、荷物に関してもジュンではなくとも、別の誰か……事務所の人間でいいんですけど」
「嫌だね!」
 間髪を入れずに日和が言った。だそうですよ、と茨が肩をすくめる。
「ええ、マネージャーでいいんじゃないですか……オレ、この後も仕事なんですけどぉ」
「今のマネージャーはぼくの家の中には入ったことがないと思うね? 勝手がわからない人間に部屋の中を触られたくないね!」
「ではそういうことで。ジュン、あとは撮影が一本だけですよね? 殿下の後でそちらにも自分が送りますので」
 勝手に話が決まり、よろしくお願いしますよ、と念押しをされた。逆らうだけ無駄だ。ジュンは、はあ、と頷いた。


 日和をホテルに降ろしたのち、ふたたび車は走り出した。手荷物は大きめのボストンバッグがひとつのみだったが、いつもなら当たり前のようにやらされる荷物持ちを今日は逆に断られた。おそらく機嫌取りへの反発だ。
「面倒なことになりましたよ、本当に」
 ジュンとふたりきりになったからか、茨はあからさまに機嫌が悪い。人差し指がいらいらとハンドルを叩いている。
「いや、おひいさんも言ってましたけど、事実じゃないんですよね? じゃあ違うってはっきり本人の口から説明すれば済む話なんじゃないですか?」
「馬鹿ですか、あなた」
 ばっさりと言い捨てられる。さすがにむっとしたが、言い返すのはやめた。今の茨では一が十どころか百にも千にもなって返ってきそうだ。
「今でもあの怒りようですよ。あの調子で公の場で余計なことを言われては収まるものも収まらなくなるでしょう。相手方も、コズプロほどではなくてもそこそこの大きさの事務所ですし、しかも事がご実家関係となると、殿下に好き勝手に喋らせるのは不安です。その件ではいまだに頑ななところもありますからね、実際。その辺りをつつかれた場合、殿下が本当に激昂する可能性があります。そうなると自分ではコントロール不能です」
「ああ、なるほど」
「先ほども言ったように、こちらから抗議はしていますので、しばらく静観して方向性を決めます。沈静化するならそれでも良し。まあ、あまり期待はできなさそうですがね。しかし、さらに燃やそうとする輩がいるなら自分も手段は選びません」
 フロントガラスを睨む茨の眼差しは怒りに燃えている。怒っている茨は普段よりも生き生きしているとジュンは思う。
「なんか、大変なことになりましたねぇ」
「他人事みたいに言ってる場合じゃないですよ。殿下が捕まらなければ矛先が向くのはジュン、あなたですからね。頼むから余計なことは言わないように」
「それぐらいわかってますって」
「EveとEdenの当面の仕事は全部リスケになりましたので。調整できる部分は個人の仕事を動かしたいところですが、ジュンの場合はそれもなかなか難しそうです。しばらくはいつもよりも相当暇なはずなので、空いた時間はせいぜい殿下のご機嫌を取るようにしてくださいね」
「ハァ? なんでオレが?」
 当たり前のような顔で言われ、思わず声を上げた。
「当然でしょうが。あの殿下が自分が言いくるめたぐらいで大人しく篭っていてくれると思います? さすがに今は身内以外の誰か……特に、女性に会われては困りますから」
「そんな相手います?」
「知りませんよ。あの様子の殿下に訊けるわけも言えるわけもないでしょう。いちいち口ごたえしない。自分も苛立ちで気が狂いそうなんですから」
 ああもう、と茨はうめく。両手が空いていれば髪の毛を掻き回しそうな様子だ。
「今に目に物見せてやりますよ。絶対に後悔させてやる」
「……まあ、ほどほどにお願いしますよぉ」
「ちょっとジュン、呑気すぎません? あれが出て叩かれるのは殿下ですよ。事務所も自分も当然気を配りますが、ジュンもフォローしてくださいね。ネットにはもう話が出てしまっているので」
「わかってますってば」
 思ってもみなかった方向に話がややこしくなっている。事実ではなくとも信じる人間が多ければ、それはまるで真実のような顔をし始める。それは、ジュンにも覚えがあった。
「めんどくせぇ……」
「まったくです!」
 茨がぐいとハンドルを切った。安全運転で、と咄嗟に言うと、わかってます! と被せるように返事が飛んできた。


 撮影と着替えを終え、スマートフォンに触れる。SNSの通知は今は不愉快な内容がほとんどだろうから無視をして、日和からの連絡を開いた。
『仕事が終わったらすぐに来て』
 すぐに、とは簡単に言う。何を持っていけばいいですか、と尋ねる前に、新しい吹き出しが浮かんだ。まさかずっと見張られているのだろうか。良すぎるタイミングに、馬鹿馬鹿しいことを考えた。
『荷物は別にいいから買い物をしてきてほしいね!』
 続いて送られてきたのは、おそらくデリカテッセンとベーカリーの店名だ。アプリで場所を確認すると、遠くはないが近くもない。今終わったばっかりなんで、と入力している間に、あれこれと買い物リストが送られてくる。諦めて、わかりました、とだけ送った。
 この感じ、どこかで、と考えて思い出した。
 日和と出会ってまだ日が浅かったころ、それこそ朝から晩まで一日中一緒にいた時期も、こんなふうに日和に用事を言いつけられては走り回っていた。今となっては懐かしいような気もする。
 妙に感慨深い気分になっていると、ふたたび手元のスマートフォンが通知に震えた。
『ぼくは心が広いから、一時間だけなら待ってあげるからね。早くね!』
 前言撤回だ。思わず時計を見る。一時間って、今から大急ぎで向かったとしても、ギリギリどころか絶対に間に合わない。
『一時間は無理です。なるべく早く行きます』
 それだけ返信し、そのままスマートフォンをダウンのポケットに突っ込んだ。


「遅ーい!」
 着く頃には日もすっかり暮れていた。玄関もリビングも薄暗いままで、まさかどこかへ出ていっているんじゃ、と不安に思いながら覗いた寝室に、日和はいた。珍しく、着替えもせずにひろびろとしたベッドの真ん中で横になっている。よくよく見れば、ベッドからほんの少しはみ出した足には靴を履いたままだ。まったく、日和らしくない。
「一時間は無理ですって。ていうか、この部屋めちゃくちゃ広くないです?」
「うん。広い部屋にしてもらったね」
 平然と日和は言った。だろうな、とジュンは思う。セキュリティのかかっているフロアにした、とは聞いていたが、おそらく茨が手配した部屋を蹴って無理を言ったのだろう。
「それにしても、ここ、すげえ高いんじゃ……」
 二ルームタイプのスイートルームなど、いくら売れているといってもそうそう泊まることなどない。グラビアの撮影で使ったことがあるぐらいだ。もしかしたら、ジュンの自宅よりも広いかもしれなかった。
「たいしたことないでしょ。別に、払うのは事務所だしね!」
 あたりを物珍しげに見回すジュンに、日和はつまらなさそうに言った。当然ながらまだご機嫌は斜めらしい。
「あんまりいじめないでやってくださいよぉ。茨のやつ、マジでピリピリしてるんですから」
「知らないね! ぼくだっていい迷惑だよね、ほんと」
「そりゃそうでしょうけど」
「ねえ、ぼく本当にここから出ちゃいけないのかね? そんなことってある?」
 反動をつけて、日和はベッドから起き上がった。いつも隙がなくセットされた髪が乱れている。耳の上から後ろに向かってそれを整えながら、日和はジュンの手に下げられた紙袋に目をやった。
「あ、ちゃんと買ってきてくれた?」
「言われたのは買ってきましたよぉ。あと、限定のキャラメルアップルパイが出てたんでそれも買いました」
「うんうん、ジュンくんにしては優秀だね! ぼくの教育の賜物だね!」
「はいはい。まあ、なるべく出ない方がいいでしょうね。どこで張られてるかわかんないんで」
 一瞬上がった日和の口角は、ジュンの言葉でふたたびむすりと結ばれた。
「それ、本気で言ってる? 退屈で死んじゃうね!」
 日和の心情はわからなくもない。ジュンとしても、話を聞いたときは大袈裟だと思っていた。
 しかし、茨と別れた後に覗いたSNSは、想像以上に荒れていた。雑誌の発売は明日でも、その公式アカウントにもう日和の名前を出した告知とだいたいの内容が流れてしまっているのだ。
 日和はあまり個人のスキャンダルが出たことがない。この手の雑誌に載るといえば定期的に流れるジュンとの不仲説ぐらいのもので、ある時期以降からはそれ以外の際どそうなものは真偽に関わらず、すべて事務所が握りつぶしていた。
 そうした采配によりスキャンダルに耐性のないファンの動揺に加えて、もうひとりの当事者である女優の夫も芸能関係者で顔が売れていることもよくなかった。事実であるならと前置きをしつつも、全体としての流れは日和と彼女を非難し、その夫に同情的な方向になりつつある。
 先程の現場の微妙な空気を思い出した。誰かが面と向かってジュンに何かを尋ねてくるわけではないが、明らかに事態を把握していそうな雰囲気。絶妙にやりにくい。これが当の日和であればなおさらだろう。
「まあ、しばらくのことでしょ。そのうち事務所……茨がどうにかしますって」
「だから、どうにかしてもらわなくちゃいけないようなことは何ひとつないんだけどね! 誓って、ぼくのこの身は潔白でしかないね!」
 日和は胸を張ってから、はあ、とため息をつき、ふたたびぼすんとベッドに倒れ込んだ。ジュンも荷物をサイドテーブルに置き、ベッドの端に腰掛ける。
「オレ、よくわかってないんですけど。これ実際どういう場面だったんですか?」
「写真のこと?」
「はい」
 余計に怒るかと思ったけれど、日和は首を軽く傾げ、ジュンのほうを見た。
「別にどうってことないね。仕事の飲み会だったと思うけどね? 周りにスタッフもいたし、たしかヒロイン役だった子も参加してたはずだしね。写り込まない瞬間をうまく切り取ったのか、なにか細工をしたのかはわからないけどね」
「じゃあほんとに、なんというか」
「悪意のある人間の仕業だろうね」
 言い淀んだジュンに変わって、平然と日和は言った。
「じゃああの、前々からファンだったっていうのは」
「ひとつも本当のことがないって言ってるよね? 事実じゃないね」
「ああ、そうなんですねぇ。オレが知らなかっただけかと」
「ぼくとジュンくんの間で、知らないこととかある?」
「そりゃあるでしょ、いろいろ」
 ふうん、と日和は言って、目を瞑った。
「まあ、彼女とは前から付き合いはあったね。もちろん書いてあったような意味じゃなくって、昔から顔見知りではあったんだよね。彼女のご実家はぼくの家とはわりと近しいというか、まあ似たような家柄だし。でももう生家からは出られていて、個人的なやりとりがあるような間柄ではないね。誤解されて困るのは、ぼくよりもむしろ彼女の方だと思うんだけどね? 不貞行為を疑われるのは気分が良いものじゃないどころか、不利益しかないわけだしね。だからきっと、早々にコメントを出すんじゃない? ぼくももうすでに退屈してるし、さっさとそうなってほしいね!」
「はあ、そういうことですか」
「納得した?」
 別に意味があって訊いたわけじゃ、と言い訳がましく口にする。
「別にいいね。それにしてもこういうとき、本当に厄介だと思うね。事実がどうだったかより、いかにもそれっぽい話の方がいつの間にか真実になっちゃうんだからね。嘆かわしいことだね! だからこそ、ぼくがちゃんとぼくの言葉で伝えるべきじゃない? この話で心を痛めているファンがいるなら尚更だよね?」
「……なんか見たんですか?」
「見ようとしなくたってどんどん目に入ってくるよね!明日になればもっとだろうね?」
 世間はアイドルに好意的な人間ばかりではない。それだけならまだしも、ファンがあれこれと言い合っているのを見るのが精神的にきついことはジュンにもわかる。
「あんまり見ない方がいいですよぉ。一時的なもんですって。なんにもわかってないひともたくさんいるんでしょうしね」
「まあそうなんだろうけど」
 目を閉じている日和の胸が、呼吸に合わせて上下している。作りものめいて整っている顔立ちは、目の表情がわからなくなると途端に近寄りがたく感じられた。
 日和はひときわ大きく息を吸い込んでから、細く長く吐き出した。
「でも、アイドルがファンを見なくなったら、いったいなんのためにこの仕事をしているんだろうね?」
「……それは」
 思わず返事に詰まった。日和はゆっくりと瞼を上げ、口の端に笑みを浮かべた。
「ジュンくんには怒ってないし、責めてるわけじゃないね。心配してくれてるのはわかってるし」
 まだ靴を履いたままの日和の足が、視界の端でゆらゆらと揺れる。
「……横になるなら、靴、脱いだらどうですか」
 すみませんと謝るのも違うような気がして、全然関係のないことを言った。ああ、と気のない声が返される。
「うん、じゃあお願いするね」
 当たり前のように足が上がって、なんだそれ、と思いながらその革靴に手を掛けた。常にきれいに磨かれているそれを片足ずつ脱がせ、床に揃える。ついでに靴下も脱がせた。くるぶしを掴まれた日和がくすぐったそうに笑う。今の季節、陽に当たることがない足の甲は白い。
 裸足のつま先で太腿をつつかれた。
「ジュンくんも」
 上がって、と日和はささやく。言われるがままにスニーカーを脱いで、ベッドに上がった。見下ろした日和の口元は笑っているが、目の色はいつもよりも濃く、まったく笑っていない。怒ってるなぁ、と思う。
「触っていい?」
 返事をする前に、日和の手がトップスの下に滑り込んだ。インナーの裾が引っ張り出され、直接肌を触られる。寒気に似た、けれど明確に違う感覚が触れたところからひろがる。
「力入れてみて?」
「何の遊びですか?」
「別に? ほらほら、早く」
 脇腹をくすぐられて、言われるがままに力を込めた。浮き上がった腹筋の溝を、日和のかたちの良い爪がなぞる。
「っ、ちょっと、くすぐってぇんですけど」
「あ、硬くなったね」
「わざとですか?」
「当たり前でしょ?」
 まだいたずらを続けそうな手を封じるように覆い被さる。いつもよりも少し低い声で日和が笑って、その振動が重なった胸に伝わった。首筋に顔を埋め、薄い皮膚を柔らかく噛む。こら、と声が降ってきたけれど、いかにもたしなめるようなふりをしながら、その手はもうジュンのベルトにかかっていた。そのまま下着にまで手が忍び込んできそうになるが、密着しているせいでやりにくそうだ。
「脱がせにくいね。自分で脱いで」
「おひいさんは?」
「ぼくも脱ぎたい」
 ジュンを押しのけて、日和は起き上がる。丁寧な仕草で外された時計がサイドテーブルの上に置かれ、服が一枚一枚脱がれていく様子を横目に、ジュンはインナーまでをまとめてがばっと頭から抜く。その様子に日和は眉をしかめた。
「皺になっちゃうね?」
「おひいさんのと違って繊細な服じゃねぇんで」
 最後の一枚はジュンが脱がせた。寒い、と言われて、エアコンの温度を上げる。
 日和を寝かせようとしたら、逆に肩を押された。
「ジュンくんにしてもらおうか、ぼくがしてあげようか迷ったんだけどね?」
 室内灯を背にジュンの太腿にまたがり、日和は楽しそうに笑う。触れるか触れないかの手つきで撫でられた腰が思わず跳ねた。日和がますます笑みを深くする。
「今日はぼくが乗ってあげるね」


 触れたことがない場所などないぐらいに触り合って、手だけではなくくちびるや舌も使って、相手と自分をたしかめる。日和はそういうやり方が好きだった。スキンシップが好きな日和らしい。
 自分が触れることでジュンがどういう反応をするのか、逆はどうか、それが日和の興味の対象らしかった。日和から触られたことがない部分は、ジュンの体にはきっともうない。
 楽しいといえば楽しいけれど、ジュンからしてみればときどきまどろっこしい。焦れたら焦れただけ気持ちがいいにしても。
 だから、こんなふうに快感ばかりを追うような様子は日和にはすこし珍しかった。
「っ、はぁ……」
 ジュンの上で、日和が重たく長いため息をつく。それに合わせて内側がうごめいて、ジュンは奥歯を噛む。そうしないと、みっともなく声が漏れそうだった。
 伏せていた目を上げて、日和がジュンを見下ろす。興奮で潤む目の縁がうっすらと上気している。
「ねえ、だめ、ジュンくん」
 親指が口の中に捩じ込まれた。思わず力がゆるんだ隙をついて、指は歯列を割って舌を撫でる。うっかり噛んではいけない、と思うと口を開けざるを得ない。そのタイミングで中がきつくなったから、うあ、と声が出た。
「ん、いい子。声が聴きたいね」
 口蓋や頬の内側まで触ってから、指は出ていった。湧いた唾液をなんとか飲み込む。
 スキンは日和が持っていた。この前の泊まりのときの残りらしい。当然持っていない他のものは代用品で、だから薄いラテックス越しに感じる感触がいつもよりもきつくて硬いことが気に掛かった。
 こちらに体を倒した日和にキスをされる。すぐに舌が入ってきて、求められるままにぬるぬると絡めあった。日和が腰を使い始め、尾てい骨から背中にぞくぞくとした感覚が走る。
「んっ、は、あぁ、あっ」
 くちびるの合間からこぼれる声は常よりもわずかに高く熱を含んでいるから、日和も気持ちはいいのだろう。
「いたく、ないですか」
 顔が離れたときにそう尋ねると、日和の表情は一瞬正気に近くなった。
「どうして?」
 訊き返してくるのに、痛くなくはないんだな、と思う。
「だから、入れるのはやめましょうって言ったじゃないですか。一回抜いて」
「嫌」
「いや、なんで……」
「大丈夫、気持ちいいしね。ジュンくんも気持ちいいでしょう?」
「そりゃあ、あっ」
 ずるずると腰が上がった後、ひといきに落とされて思わず声が漏れた。日和がふふと笑う。
「もっと、ジュンくんのかわいい顔が見たいね」
 汗で湿った前髪をかき上げられて、近くでまじまじと顔を見られる。消し損ねた明かりはそのままなので、おそらく赤くなっている頬も耳も丸見えだ。顔をしかめたジュンのくちびるの端に、まるで子どもにするようにちゅっと音を立てる口づけが落ちた。
「楽しいですか? それ」
「うん、すっごく。ジュンくんってば全部顔に出るし?」
「はあ……」
 喋りながらも日和の腰はゆるゆると動く。当たり前に気持ちがよくて、ときどき声が震えた。好きにされているばかりなのは面白くなくて、日和の太腿を撫でて、腰を支えた。それが動くのに合わせて、下からも軽く突く。あ、と声が高く上がって、きゅうと握られる。
「んっ、うん、そこ」
 日和が眉を寄せる。ゆったりとしていた動きが、膝をついたままのグラインドに変わった。ジュンで遊んでいたような様子が快感を味わうようなしぐさに変わったことに、ジュンも興奮した。日和の好きな場所をひっかけるように腰を動かす。あ、あ、と短く高い声が上がった。そのまま続けていると、ようやく中がやわらかくなってくる。それに少し安心して、そのことも感覚への没頭を助けた。気持ちがいい。
「あ、だめ、触らないで」
 ときどき腹につく日和のものに手を伸ばすと、めずらしくそれを払われた。
「今日は中でいきたいから、だから、先にいかないでね」
 う、と声が詰まる。きっと、情けない顔をしてしまった。
「ちょっと、あの、無理かもなんですけど」
「だめ。ぼくのために我慢して」
「えぇ……」
 じゃあと体位を変えようとしたら制された。
「もうちょっとだから、頑張ってね」
 やっぱり遊ばれているんだろう。意地悪く口角を上げた日和は、ジュンの肩を押さえ込むようにして、ふたたび動き始める。おそらくその気になればひっくり返せなくもないのだろうけれど、日和には逆らえないという長年の躾がそれを邪魔する。
「っく、うぅ」
「っあ、ああ、きもちいい、あ」
 ジュンくんの、かたい。そううっとりと耳元でささやかれて、勘弁してくれと思った。出したい。このまま好き勝手に腰を振って、好きなときにいきたい。その衝動を必死で我慢する。日和の弾む息と喘ぐ声が吹き込まれる耳が熱い。そのふちをべろりと舐められて、声がひっくり返った。
「やめ、おひいさん、あっ、もう、もうほんとに」
 いよいよ我慢できない、というのが伝わったのか、体を起こした日和も腰を速める。
「うん、あ、ぼくも、もうっ」
 日和の内側が絞るように動く。そのまま、もっと、とねだられるままに好きなところを突く。日和が体を反らせたのに合わせて、ジュンを包む粘膜が震えた。
「あ、いく、あっ、あ……っ」
 日和の吐き出した白いものがジュンの腹の上に散る。なけなしの理性をかき集めて動きを止めた。達しているときに動くと、苦しがられることのほうが多いからだ。
「っは、あ、あー……」
 堪能しきったような様子で、日和がこわばらせていた体から力を抜いた。視界が狭くなったような感覚で頭が痛い。我慢しすぎているせいかもしれない。はっはっという、まるで犬のような呼吸が耳に付いて、何かと思えば自分のものだった。
 ジュンの腹に垂れた精液を、拭うつもりかなすりつけたいのかわからないような仕草で指で伸ばし、日和は目を細めた。
「ん、もういいよ」
 許しが出た瞬間に、がばっと体を起こす。わ、と声を上げる日和を支えて正常位に持ち込んだ。自分よりもだいぶ柔らかい股関節を広げ、奥まで押し込む。ぶつけるようにくちびるを合わせると、待っていたように舌が吸い付いてきた。ぞっとするような快感が背中を走る。
「痛かったら、言ってください……っ」
 口づけの合間にかろうじてそう言って、そのままめちゃくちゃに腰を振りたくる。キスをしながら日和はジュンの髪に指を差し入れ、ぐしゃぐしゃに撫で回す。それさえ過敏になった体には刺激だった。
 すぐに限界はやってきた。体をびくつかせ、ジュンは吐精した。閉じた目の裏が白黒に明滅する。
 そのまま日和の肩口に頭を預け、酸欠になった頭に酸素を回すように呼吸をする。ここまで煽られ我慢をさせられたのは久しぶりで、頭がおかしくなるかと思った。
「……ジュンくん、重い。あと、暑いね」
 日和はしばらくジュンの背を撫でていたが、もういいだろうと思ったのか、両手でジュンの頭を上げさせた。ちゅっと鼻の頭に口づけられる。合わせた視線の先の日和の瞳はもういつも通りの色だった。
「ぼく、ジュンくんがいくときの顔が見たかったのに。今日は特にかわいかったと思うのにね?」
「いや……勘弁してくださいよぉ」
 がっくりと頭を落とすと、声を上げて笑われた。それに合わせて内側にも力が入る。うっかりまた硬くしそうで、ジュンはスキンを押さえながら腰を引いた。特に溜めていたわけでもないのに量が多くて気恥ずかしい。
「大丈夫でした? オレ、最後結構乱暴にしちゃって」
「いいよ、いじめたのはぼくだしね」
 手渡したティッシュペーパーで足の間をぬぐって、日和はそれをぽいとゴミ箱に投げた。そして、あーすっきりした、とベッドに横たわる。いじめた自覚があんのかよ、とは心の中で思うだけにとどめた。SMで言えば日和は絶対にサドだ。
「そういうの、悪趣味ですって」
「そう? ジュンくんにしかしないから大丈夫」
 何が大丈夫なのか全然わからない。もしも加減を間違えて怪我でもさせてしまったら困るのでほどほどにしてほしいが、言って聞くような日和でもない。
 日和が汚した腹も適当に拭いて、ジュンもベッドに倒れ込む。なんだかんだでものすごく疲れた。もう起き上がれる気がしない。隣を見やると日和もおおむね同じような様子だった。いつもならすぐに風呂に入りたいと言い出すのに、それもおっくうらしい。
「なんだか疲れたね」
「そうっすねぇ」
「明日、仕事行けるかな」
「明日……は無理じゃないっすか、多分」
「やっぱりそう?」
 はあ、とため息をつかれる。
「まあ、ちょっとした休みだと思いましょうよ」
「ホテルに缶詰めの? 全然楽しくないけどね」
「なるべく、オレも顔出しますから」
「当然だね!」
 長かった一日がようやく終わりそうだ。明日からどうなるのかまったくわからないが、それは今考えても仕方がないし、疲れた頭では何もいい考えは思い浮かびそうにない。
「もう、寝ましょう」
 そう言って、日和に布団をかける。なにかを言いたそうにしていたが、結局ジュンと似たような結論に至ったのか、日和はおとなしく頷いた。
 眠気はすぐにやってくる。しばらくごそごそと寝返りを打っていた日和が静かになったのをかろうじて確かめてから、ジュンもすぐに眠りに落ちた。

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