思考実験ロマンス

一.

 それは、まったくの突然だった。
 その前の晩、ぼくは珍しく焦っていた。予想外に長引いた仕事は全然終わる気配もないまま、予定の時間をとっくに過ぎている。最後の撮影で着るはずだった衣装がなぜか届かなかったり、しかもそこに機材の故障が重なったりしたせいで。
 他のことなら予定を変更すればよかった。けれど、夕方には帰れるはずだからと、ぼくはこの日に限ってブラッディ・メアリの食事の用意をしていなかったのだ。
 ぼくがいなくてただでさえさみしい思いをしているだろうに、食事まで遅れてお腹を空かせるなんて、いくらなんでもかわいそうすぎる。自動給餌器の設定をしてこなかったことを後悔しながら、結局ぼくが頼ったのはジュンくんだった。まあ、メアリはぼくだけじゃなくジュンくんの女王様でもあるわけだから、当然なんだけど。
 一人暮らしを始めたころから、ぼくたちは互いの部屋の鍵を預かっている。なにか不測の事態のために、というのもあるけど、こんなふうにメアリの世話だったり、あとはジュンくんをうちのキッチンに呼んだりするときに、いちいち合鍵のやりとりをするのは面倒すぎる。そういえば、ぼくの部屋にはわりとしょっちゅうジュンくんが来ている気がするけど、ぼくはしばらくジュンくんの部屋には行っていないかもしれない。
 そんなこんなで、ぼくが家に帰り着いたのはもう日付が変わろうとしている時間だった。
 さすがに疲れた、と思いながら、リビングの扉を開ける。てっきりもう帰ったと思っていたジュンくんは、ソファーで横になっていた。
 眩しかったのか、ううん、とジュンくんは眉間に皺を寄せた。背もたれで顔を隠すように体勢を変える。ぼくは急いで照明を落とした。幾分薄暗くなった中、メアリは、と部屋を見回す。ちゃんと自分のベッドで丸まり眠っている姿にほっとした。やっぱり、ジュンくんに頼んでよかった。
 ソファーのジュンくんにそうっと近づく。胸は呼吸に合わせて規則正しく上下していて、目覚めそうな気配はない。ゲームでもしていたのか、ジュンくんの手にはスマートフォンが握られたままだった。ぼくは今にも落ちそうなそれを取り上げて、テーブルの上に置く。よく見ればエプロンもつけたままだ。ちょっと横になるつもりが、いつの間にか眠ってしまったというところだろう。
 ジュンくんがこんな格好をしているということは、と、ぼくはいそいそとキッチンへ向かう。カウンターには鍋が置かれたままになっていて、中を見ると野菜が煮込まれたスープだった。きっと、ぼくが帰ってきたら温め返してくれるつもりだったんだろう。食べるタイミングを逃してしまったせいで忘れかけていた空腹が蘇る。今からはちょっと遅すぎるから、明日の朝にでも食べることにしよう。
 鍋をしまうために開けた冷蔵庫には、朝はなかったお皿や保存容器がいくつか収められていた。またご飯を作ってと言ったのを覚えてくれていたんだろう。
 ぼくは頬をゆるめながら、ついでに持って帰ってきた箱も冷蔵庫に入れた。中身はもう季節が終わろうとしているいちごだ。昼間、移動途中にフルーツショップで見かけたそれはあまりにつやつやと赤く光っていて、その姿にぼくはジュンくんはいちごが好きだったなぁと思い出して、そしたらなぜか買ってしまっていた。ひとりで食べるには多すぎるし、余計な荷物になったという気持ちさえ芽生え始めていたのに、ジュンくんがいるだけで途端に買ってきてよかったという気分になる。
 ジュンくんは家に帰るつもりなのだろうか。ふたたびリビングに戻り、ソファーの隣にしゃがんでその顔を眺める。目にかかっている前髪を避け、頬をつついてみても、ジュンくんは口元をむにゃむにゃと動かしただけで、どうも起きる気配はなかった。さっき確認したスケジュールでは、明日の午前はぼくとジュンくんは同じ現場のはずだ。じゃあ寝かせておいてもいいかな。ソファーでなんて、体が痛くなりそうだけど。
 せめて、とコットンのブランケットをかける。明日は明日で朝から仕事だし、これからシャワーを浴びて寝支度をして、と考えるとため息しか出ない。それでも、家に帰り着いたときのうんざりした気分はずいぶん軽くなっていた。朝ごはんは何を作ってもらおうかな、と考えながら、ぼくはリビングの明かりを落とした。



 おひいさん、と揺り起こされて、ぼくはなんとか目を開けた。まぶしい。レースのカーテン越しの日差しは容赦なく寝室に差し込んでいて、ふたたびぎゅっと目を閉じる。
「起きてくださいよぉ」
 手繰った掛け布団はその言葉とともに取り上げられた。思わず、うぅ、と声が漏れる。
「……眠い」
「おはようございます」
 珍しいっすね、とジュンくんが笑った。
「メシ、食いますよね? あんた、結局昨日は食ってないんでしょ?」
「食べる……」
「それならもう起きないとですよ」
 ほらほら、と手を握られ引き起こされる。ぼくはいつもはわりと寝起きがいいほうで、ジュンくんはそうでもないから、こんなことはめったにない。だからか、ぼくがこんなに不満そうにしているのに、ジュンくんの声は妙に上機嫌だった。
「昨日、何時ぐらいだったんですか?」
「てっぺん……回っちゃって……」
「そりゃ大変でしたねぇ。つうか、目が全然開いてないですよ」
「だから眠いの……」
 ぐらぐらしそうになる首をなんとか支える。眠い。眠いけど、ジュンくんが言うようにそろそろ起きなければいけない。
 ぼくはようやくうっすらと目を開けた。目が痛い。涙で滲んだ視界を払うように、何度かまばたきをする。
「起きられます?」
「うん、起きる。でもちょっと待ってほしいね」
「はいはい」
 やっと焦点が絞られて、はっきりとジュンくんの顔が見えた。ぱちん、と視線が合う。
「あ、起きた」
 ジュンくんは笑った。暗い髪が逆光で明るく透けている。まぶしい。握っていたジュンくんの手がほどけて、ぼくの髪を撫で付けた。ぴく、と体が揺れる。
「めちゃめちゃ寝癖ついてますよ」
「……いいの。シャワー浴びるから」
「あ、オレもさっき借りましたよ。つうか、起こしてくれてよかったのに」
「うん……」
「まだ寝ぼけてます? 先にシャワー入ったらどうですか。どうせおひいさんの支度長いし」
「うん……」
 生返事しかしないぼくに焦れたのか、ジュンくんはちょっと強引にぼくをベッドから立ち上がらせた。
「おひいさん、マジで寝ぼけてません? まあいいや、オレはちゃんと起こしましたからねぇ。ほらほら、起き上がっちゃえば大丈夫ですって」
 ジュンくんに握られている手が熱い。さっき撫でられた髪までもがじわじわと熱い気がする。そんなわけがないのに。
 これは、なんだろう。
 まったくの突然の感情に、ぼくは戸惑っていた。



「ねえどうしよう、ぼく、ジュンくんに恋しちゃったのかも……」
「ハア?」
 心底呆れたみたいな声で、茨が言った。
 コズミック・プロダクションの副所長室とやらは、不特定多数が出入りする関連部署とも近いわりに、ここだけが切り取られたように静かだった。茨の采配で防音となっているらしい。それほど広くはない部屋だけど、茨のデスクとは別にちゃんと応接スペースもある。つまり、あえてこの部屋で相談されているのは、外に聞かれては都合が悪いことばっかりなんだろう。ぼくの話もまあ、茨にとってはそれらの中のひとつになるのかもしれない。
 茨はキーボードを叩く指を一瞬止め顔を上げて、ぼくの顔を見た。それからすぐにまたモニターに目を落とす。まるでなんでもないことだからというみたいに。
「ねえ、聞いてってば!」
「ちゃんと聞いておりますよ。恋! それはそれは、なんでまたそのようなことをお思いに?」
「茨の聞くって、このぼくの顔も見ず手も止めずにできること?」
「ご勘弁ください、この調整だけは今やってしまいたいのです。せめて前もって連絡をいただいていれば、自分もちゃんと殿下のために時間を空けてお待ちしていたのですが!」
「じゃあ待ってる」
 まじか、という様子を隠しもしないあたり可愛げがない。当たり前だね。わざわざこのぼくが事務所まで来た意味を考えてほしい。
 ぼくが本当に黙ったから、茨はそれ以上何も言えないみたいだった。せめてお茶ぐらい出してほしいものだけど、人払いを命じたのはぼくだから仕方がない。
 急ぎの仕事というのは事実みたいで、茨はしばらくこちらに目もくれなかった。タイピングの音と、時折鳴るスマートフォンの呼び出し音と、それに短く答える茨の声だけが部屋に響く。
 まだ時間がかかりそうだ。ぼくは席を立った。
 事務所の共有スペースのドリップマシンは、茨の趣味でなかなかいいものが置かれている。本当は紅茶がよかったけれど、さすがにオフィスにティーポットは常備されていないみたいだった。
「ねえ、あれ、紙コップやめない?」
 部屋に戻り、デスクの端にコーヒーを置いた。茨はぼくの顔を見上げ、ぱちぱちと瞬きをした。
「……給湯室にありますよ、ちゃんとしたカップが」
「そうなの? 給湯室って、どこ?」
「まあ、殿下自らがコーヒーを準備することなどありませんからね。別に知らなくても大丈夫です。というか、自分にまでこのようなお心遣い、大変恐縮であります!」
「いいから、そういうの」
「そうですか。では遠慮なく」
 ぼくもソファーに腰掛け、不本意ながら紙コップに注いだコーヒーを飲む。あと十分ぐらいなので、と茨が付け足す。さっきまで待ちきれないなら帰れ、という雰囲気だったのに。
 本当にちょうど十分でPCをスリープにし、飲みかけのコーヒーを手に席を立った茨は、ぼくの前に移動した。
「お待たせしました」
「本当だね? まあ、ぼくは心が広いからね。気にしなくていいね」
「いや、次から連絡してから来ていただけますかね、ほんとに。自分も暇じゃないんで」
「ぼくより優先されることなんてある?」
「ありますよ、普通に」
 むうっとしたぼくを尻目に、茨はぬるくなってしまっているであろうコーヒーを啜った。きっと好きだからいいマシンを置いているんだろうに、ぬるくなっていることは気にしないあたりが茨らしい。
「で? ご用件は?」
「言ったでしょ? どうやらぼく、ジュンくんに恋しちゃったみたいで」
「はあ、恋」
 茨は妙な顔をした、ブラックだと思って飲んだコーヒーがすごく甘かった、みたいな、そういう顔。まあ予想の範疇だったので、ぼくは気にせずに続ける。
「そうなの。どうしよう? どうしたらいいと思う?」
「ちょっと待ってください。確認なんですけど、ジュンくんって、ジュンのことですか? 我らの同志の、漣ジュン」
「そうだけど? それ以外に誰がいるの?」
「はあ……。で、恋とは、ラブってことですか? 池に泳いでいる鯉とかじゃなくて?」
「茨、ぼくのことを馬鹿にしてるね?」
「滅相もない。ただ、ちょっとこう、想像もしていなかったもので」
「そうなんだよね……ぼくも今日気づいたしね」
「今日?」
「そう、今日。本当に、突然だったからね」
 ぼくは頷いた。



 あれから、ぼくの様子はまだ眠いからだろう、と思っているらしき見当違いのジュンくんにそのままバスルームまで誘導され、ぼくはぼんやりとしたままシャワーを浴びた。
 それで目は覚めたけれど、ジュンくんが作ってくれた朝食を並んで食べている間も、ジュンくんは妙にぴかぴかとしていた。当たり前のように握られた手にも、洗ってもうとっくに乾かした髪の先にも、ジュンくんに触れられた感触が残っているみたいで、そのうずうずともじりじりとも言えない感覚はぼくをじわじわと支配した。
 昨日ジュンくんが作ったあれこれと、たった今出来上がったあたたかい卵料理と、それからぼくが買ってきたいちご。朝食には豪華すぎるほどのメニューだ。
「どうしたんですか、これ?」
 ジュンくんに尋ねられて、「ジュンくんが好きかなと思って」と、ぼくはやっぱり半ばぼんやりと答えた。
 ジュンくんはわずかにはにかむように笑った。ありがとうございます、と言って、それをひとつ、ぱくんと食べる。
「うまい。甘いですよ」
「うん、よかった」
 ジュンくんにならって、ぼくもいちごを口に運ぶ。ジュンくんの言うとおり、季節外れだとは思えないほどにそれは甘くて、みずみずしかった。
「おいしい……」
「ね。こんな、ひとつずつ入ってるみたいなの、高かったんじゃないですか」
「さあ、気にしてなかったからね」
「さすが貴族さまっすねぇ」
 ジュンくんの軽口はいつも通りだ。きっと、ぼくだけがおかしい。
「ぼくのもあげるね」
「いいんですか?」
 プレートの上のいちごを指すと、ジュンくんはぱっと顔を輝かせた。ぼくは何も考えられないまま、いつも通りにフォークにそれを刺して、ジュンくんの口元に運ぼうとして、そしてはっとした。はっとしたものの時はすでに遅しで、いつも通りにジュンくんはそのまま口を開けた。
「……おひいさん?」
 固まったぼくに、怪訝そうにジュンくんが声を上げる。今まで平気でやっていたことが途端に不自然に思われて、でも突然止めるのも変だ。ぼくは極力平常通りを装う。
「ううん、なんでも。はい、あーん」
「あーんって……やめてくださいよねぇ」
 口でいちごを受け取ったジュンくんが、もぐもぐと咀嚼しながら文句を言った。当たり前のようにあーんされているのはジュンくんのくせに。
 それからぼくたちはいつも通りに身支度をして、ジュンくんの車に乗って現場に入った。仕事はちゃんとやった。当然だ。内心がどうであれ、仕事はきっちりとやるべきであるし、ぼくは当然それができる人間だ。うまくやれた自信もある。
 ただ、Eveの撮影はいつもながら距離が近い。今日は女性誌のグラビアだったから、特に。当たり前のように指や頬が触れるたび、ぼくの胸はきゅっと跳ねた。
 特集のテーマに合わせてきっちりと作り込まれたジュンくんのアイメイクは、とろっとした蜂蜜みたいな目の色によく似合っていた。まぶたにはきらきらと光るアイシャドウが施されていて、その下のぼくほどに長くはないにしてもくろぐろと濃いまつげが、頬に影を落としている。
 それが、恐ろしいほどにうつくしかった。
 伏せられていたまぶたが上がって、ジュンくんと目が合った。オーダー通りに見つめ合う。
 ぼくの目は、きっとたっぷりと潤んでいたにちがいない。



「もう、ぼく、きゅーんってしちゃって……」
「きゅーん……」
 真顔で茨が繰り返した。
「衝撃的なのですが」
「なにが?」
「殿下が、少女漫画のような表現をなさったことが……」
「ぼくもときどき読むんだよね。ジュンくんがハマってる漫画とか。茨から少女漫画なんて言葉が出てくるのも意外だけどね?」
「はあ。まあいいです。すみません、話の腰を折って。続けてください」
「うん、まあ別にもう続けるほどの話はないね。それで、ああもうこれは恋に違いないって思って、いてもたってもいられなくって」
「それで、自分のところに来たと」
「うん。誰かに聞いてほしくって」
「正直、自分はあんまり聞きたくなかったんですが……」
 げんなりといった様子で茨が言った。
「えぇ? だって、凪砂くんは今は外国だし。公演も大変だろうし、さすがにね」
「いや、自分も結構忙しいんですよ、ほんとに」
 凪砂くんは、仕事のために先月から海外にいる。かなり長期のミュージカル公演だ。それも、日本からの海外公演じゃなくって、現地の公演に参加するという形で。前々からの念願がようやく今年実現して、この数ヶ月の凪砂くんの不在のために、茨もぼくたちもかなりの準備をしてきた。凪砂くんなら心配はないだろうけど、成功はぼくたちの願いでもある。
 凪砂くん不在の間、Edenの仕事がストップする代わりに、ぼくたちEveの仕事は増えている。茨はというと、ソロの仕事を少しと、ここぞとばかりに経営の方に力を入れているみたいだ。
「で? とりあえず聞きましたけど。これで満足ですか?満足でしたらそろそろお帰りいただきたいんですけど」
「なにそれ。薄情な子だね」
「自分ほど恋愛相談に適していない人間はいないと思いますし」
「相談じゃないの。聞いてほしいだけだから」
「はあ」
 茨は眉間を揉んだ後、ちょっと失礼しますよ、と内線電話を取り上げた。
「すみません、どうせ食事も摂らなければいけなかったので。いいですか? その間は聞きますから」
「うんうん、それで許してあげるね」
「殿下も何か食べます?」
「ううん、いい。お茶だけもらえる?」
 日和殿下にお茶を、茶葉はあそこに置いてあるもので、あとは自分に何か適当に。そんなオーダーで運ばれてきたのはローストビーフのサンドイッチだった。紅茶は最近ぼくが気に入ってよく飲んでいるもので、褒める代わりに茨のぶんもぼく手ずから注いであげることにする。
「で、どうするんですか?」
「うん、そう、どうしたらいいと思う?」
「ですから、相談はやめてほしいんですけど……」
 サンドイッチを頬張って、茨は器用に片眉だけを上げた。
「相談っていうか、意見を聞きたいだけ? 別に聞いたからと言ってその通りにはしないと思うんだけどね」
「余計に感じが悪いですよ」
 そうですねぇ、と茨が視線をさまよわせる。
「……殿下の望み次第では? このままでいいなら特に何もしなくていいんじゃないですか。そうではなくて、何かジュンに対して望むことがあるなら、どうすればそれが得られるかを考えてみてはどうかと」
「なるほどね」
 ジュンくんに望むこと。考えたこともなかった。
「なんだろうね? でも、ぼくばっかり恋しちゃってるのは、やっぱり不公平じゃない? ジュンくんにも同じように、ううん、それ以上にぼくのことで頭をいっぱいにしてほしいね!」
「はあ……恋ねぇ……」
 考えるような様子なのに、皿の上はみるみるうちに減っていく。あまりに早食いだと胃を悪くするね? と苦言を呈すると、茨は珍しく素直に頷いた。
「いや、どうも治らないんですよね。気をつけます」
「うんうん、一旦休憩して。ぼくの話ももっと聞いてほしいし」
「それは遠慮したいんですけど」
「どうして? じゃあぼく、だれか、別の事務所の子に話してもいい? そうだね、つむぎくんとかなら聞いてくれそう。あとは……」
「絶対にやめてください」
 食い気味に言葉を被せられる。別にいいと思うけどね。
「そうそう、あとね。恋をしたのって、ぼくはじめてで」
「は?」
 茨が目を丸くした。
「じゃああの、あれらはなんだったんですか?」
 言っているのは、今までに何度か撮られた写真のことだろう。どれも大したものじゃない上に、茨がもみ消したので記事にはなっていない。
「だって、そりゃあ求められたら応えてあげたいじゃない? ぼくを好きな子のことはみんなかわいいし、女の子たちと一緒にいるのは楽しいしね。それに、ぼくだって男だし?」
「真剣に付き合った相手はいないんですか? いやこれ、撮られたときに訊いておけばよかったですね……」
「ぼくはいつでも真剣だけど? ただまあ、求められたように応えるものではあるよね。だからちょっと、演じちゃうところはあるかも。それが苦とかじゃないんだけど」
 いたって真面目に答えたのに、茨はなにか悪いものを食べでもしたような顔をした。
「……なんか不健全ですねぇ。それ、自分を好きな相手なら誰でもいいって聞こえますけど」
「そうじゃないね。かわいいとは思うし、好きだなって思うときもあるよね、ちゃんと。全然好きでもない子とは寝ないね」
「もうその言い方が不健全ですよ。えっ、セックスのときもそんな感じなんですか?」
「ベッドでなんて最もそうじゃない? 求められるように応えるものでしょ?」
「いや、不自然ですって、それ……。っていうか、殿下は意外と異性に対しては奉仕体質なんですな。ジュンにはあんなに尽くさせてるくせに」
「えっそう? ぼく、ジュンくんに尽くされてる?」
「なんでちょっと嬉しそうなんですか?」
「うん、だから、ぼくジュンくんに恋しちゃったみたいだから」
「ああ、そこに繋がるんですね……」
 胡乱な顔で、茨がティーカップを傾けた。そろそろ食べ終わるにもかかわらず、茨はぼくを追い出しはしなかった。やっと真面目に聞いてくれる気になったらしい。
「ひとまず話はわかりました」
「うんうん、やっとだね?」
「いや、初めは殿下の新しい遊びかと思いまして」
「失礼な。大事な話だって最初から言ってたね」
「はい。場合によってはちょっとややこしいことになりそうなので、自分も真剣に聞きます」
「なにが?」
「いえ、いいですこっちの話なので」
 でも、と珍しく一瞬言いよどんだ茨に、何、とぼくは視線で促す。
「ジュンって、殿下のことが好きだった時期がありますよね? その、いわゆる恋愛的な意味で」
「あ、知ってた?」
 茨も気づいているとは思わなかった。
「知ってたもなにも、あれほどわかりやすい人間はいないでしょう」
 十代の頃の話だ。
 ジュンくんがぼくを見る目が日に日に熱っぽくなって、それと反比例するように距離を取られた。心当たりはあったけれど、だからと言って当時のぼくにはどうすることもできなくて、ただジュンくんのしたいようにさせておいた。その熱視線は徐々に鳴りを潜め、ほっとしたのを覚えている。ジュンくんなりに整理をしたんだろうと思っていた。
「そのときはなんとも思わなかったんですか?」
「うーん」
 率直に言っていい? と尋ねた。茨が頷いたから、ぼくは本音を言うことにする。
「困ったなぁと思ったね。下手なことをしちゃうとジュンくんを傷つけるかもしれなかったし、かといってジュンくんと同じ気持ちかと言われると違ったから。だから、直接は何も言われなかったし、放っておいたね」
「あんまり率直すぎません?」
「だから言ったでしょ。あっ、引かないでほしいね。ほら、ジュンくんて今もちょっとそういうところあるけど、昔はもっとこうだったじゃない?」
 こう、でぼくは顔の横に手のひらを添える。目の前以外の視界を塞ぐように。
「アイドルになるっていうことばっかりを考えてきたからか、すごくアンバランスっていうか。大人びてる部分もあるかと思えば、びっくりするぐらい幼い部分もあったし。だから、初めてできた距離の近い人間のぼくに、そういう気分になっちゃっただけかなって、そう思ってて」
「はあ……つまり、今まで長い時間を共に過ごす近しい人間というものがいなかったジュンが、殿下の人肌を勘違いしただけだと無視してた、ってわけですね」
「なんでそう嫌味な言い方をするのかね?」
 まるでぼくが非道な人間みたいだ。さすがにむっとすると、茨は半分苦笑いみたいな笑みを浮かべた。
「今、殿下が同じことをされたら怒り狂うでしょうに」
「うん、まあそれはそうだね」
 それはそれ、これはこれだ。ぼくはそう思うけれど、茨は違うみたいだった。
「当時だって、殿下から軽んじられていることがわからないほど、ジュンは馬鹿じゃあなかったですよ」
「……なんでぼくが茨に怒られないといけないの?」
「怒ってなどいませんが? 自分は所詮外野ですから」
「嘘、怒ってるよね。前から思ってたけど、きみ、ジュンくんの肩ばっかり持つし」
 何を考えてるのかいまだにわかりにくい眼鏡の奥の目をじっと見つめる。
「そんなことはないですよ。ただ、この件に関してはジュンに同情するなと思うだけです。まあ、上の方々は下々の者のことなどわからなくて当然ですからね」
「どうしてそんな意地悪ばっかり言うの?」
「おやおや、意地悪と来ましたか! 殿下こそ、さすがに傲慢がすぎません?」
「そもそもが恋なんて傲慢なものだよね?」
「さあ? あいにく自分にはそういう経験がないのでわかりませんな! 恋という名目のもと、ご自身は正当だと主張なさるのもわかりませんが!」
「本当に意地が悪いね!」
 悪い日和、とぼくはむくれた。いつもなら席を立つところだ。でもこっちが無理に話を聞かせていて、そしてまだ話を聞いてほしかった手前、そうするのも躊躇われた。だけど、茨がその気なら、ぼくにだって考えがある。
「っていうか、茨こそ最近どうなの」
「なにがですか?」
「あんずちゃんと」
 ぴく、と茨がかすかに眉を上げる。ほら。完全に隠せないあたり、まだ詰めが甘い。
「どうもこうもありませんな。そもそも何もないので」
「嘘お。ぼく、あんずちゃんから直接聞いたんだけどね」
 これは半分嘘で半分本当。数日前にカフェテラスで行きあったとき、あんずちゃんにも同じように尋ねたら、彼女は否定も肯定もせずにただ困ったように笑っていた。何もないならないとはっきり言う子だから、まあ、何かしらの何かがあるんだろう。ぼくには教えてもらえないみたいだけど。
「何もないのですから聞きようがないと思いますけど。殿下の鎌かけ、ちょっと雑ですよ」
「えーっ、つまんないね、ひっかかってくれないと」
「何年殿下の戯れに付き合ってると思ってるんですか」
 呆れたような仕草で茨は肩をすくめた。
 でもぼくは知っている。一時期、あんずちゃんと茨は本当に親しかったはずだ。今はどうなのか、ちょっとわからないけれど。ふたりとも仕事人間だし、余計なことを考えるタイプだから、今は距離ができている時期なのかもしれない。もっとシンプルに考えればいいのにね?
「自分のことはいいです。で?」
「ん?」
「恋はわかりました。いやまあよくわからないんですけど、とにかく殿下はジュンに恋をしてしまったと、そうおっしゃりたいわけですよね。さっきも言いましたけど、で、どうしたいんですか? 両思いになっておしまい、なんて今どき中学生でもないですよ。それに、関係が変わることで、失うものもあるかも知れませんし」
「うーん、そう?」
「ええ。例えばの話、ジュンと殿下が相思相愛の恋人同士になったとして」
 相思相愛の恋人同士。良い響きだ。
「うんうん、いいね。続けて?」
「別れたらどうします? 仕事は普通にやってもらわないと困りますけど」
「別れる?」
「恋愛関係には、いつか解消されるかもしれないという不確実性を伴いますよ。たとえ結婚したところでそうです。そもそも、いくら世間がアイドルの恋愛に寛容になりつつあるとは言え、グループ内恋愛はちょっと公表しづらいですしね……そうなると、関係は公にはできませんし」
「そんなの、なんだって全部そうじゃない? 恋人はいつか別れるかもしれないし夫婦だって離婚するかもしれないけど、大親友だっていつ仲違いするかわからないし、バンドは音楽性の違いで解散するかもしれないし、ぼくたちアイドルだってそうだね? 方向性の違いで脱退したり解散したりするの、珍しいことじゃないよね?」
「えっ」
「変わらないと言えば、そうだね、家族関係ぐらい?」
「はあ……まあ、自分は生憎家族の絆とやらはわかりませんので同意しかねますが。あと、脱退や解散したくなる前にちゃんと言ってください。善処しますので」
「なにが?」
「Edenです」
「あっはっは! 何言ってるの? ぼくたちが解散なんて、そんなわけないよね? ものの例えの話だね!」
 渋い顔をされたのが楽しくて、思わず茨の頭に手を伸ばす。撫でようとしたら当たり前のように避けられたけれど。
「なあに、不安になっちゃった? 茨もたまにはかわいいところがあるね!」
「いや、そんなに呑気な話ではないんですよ、自分には。そのつもりがないのでしたら結構です」
「うんうん、心配しないで。まあとにかく、ぼくはそういうことを考えるのはあんまり好みじゃないんだよね。それに、ぼくとジュンくんだよ? ひとつ関係が増えたって、そしてそれがなくなったとしたって、別に問題になるようなことじゃないね。いつかなくなるものならほしくないなんて、そんなのあんまり臆病じゃない?」
 何かを得るためには何かを手放すべき、みたいな考え方はぼくは好きじゃない。もちろん、そうせざるを得ないときがあるのはわかっているけど。ぼくはジュンくんに特別に思われている自信があるし、そこに今更恋愛関係がくっついたところで、そしてそれが心変わりで失われたとしたって、特別であることに変わりはないとも思う。
「……はあ、そうですかね。そこまでおっしゃるのであれば、もう自分には何も言うことはないですよ。せいぜい頑張ってください、としか」
「そうだね、ありがとうね! さっそく今日から頑張ることにするね!」
 ぼくは少しだけ残っていたお茶を飲み干し、ごちそうさま、と席を立った。
「忙しい中ご苦労様だったね。茨もお仕事頑張って」
「……もう何から言えばいいのかわかりませんが。ご満足いただけたのなら何よりです」
 深く深くため息をついた茨は、次は絶対に連絡してから来てくださいね、と付け足した。


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